学校での子どもや青少年への教育は、欠かせないと思います。教科書に記載された情報だけでなく、当事者の子孫たちや、歴史家、この史実に関連する人々などと学校で直接会う機会を作るといった取り組みが必要でしょう。
個人的に、私にとっての重要な情報源は、一般書籍や学術書、当事者による当時の回想録などです。特に、『シベリアの子どもたち 1919-2019 ~シベリアから日本やアメリカを通ってポーランドへ(原題:Dzieci Syberyjskie 1919-2019. Z Syberii przez Japonię i Stany Zjednoczone do Polski)』(ヴィエスワフ・タイス教授著、2020年、日本美術技術博物館出版)の極めて包括的な研究を高く評価しています。
次に重要な要素は、博物館での展示会です。ですが、忙しい人々にとっては、博物館に通うのは難しいこともしばしばあるでしょう。
そういうわけで、博物館も最近では、人々がいるところに出張して、パネル展を開催したりするのです。
ですので、昨年福田会がクラクフで実施したような屋外パネル展のアイディアを、とても気に入っています。このような手法で、シベリアから帰還した子どもたちに関する情報が通行人に直接、偶然の形で届くのです。
この物語との偶然の出会いが、通りかかった人に感動や考えるためのインスピレーションを与えることになることもあるのです。
今日では、インターネットが人々にとっての主な情報源となることが多いですね。私自身も、インターネットを通して、今になって、祖父やその弟妹の人生に関する重要な情報を見つけています。例を挙げましょう。戦後、祖父は自身の弟妹を探していました。残念ながら、2人とも行方不明者であるという情報しか当時は得られませんでした。ところがなんと、2021年になって、70年以上も探してきたアデラが第二次世界戦争を生き延びていたという情報を偶然インターネットで見つけることができたのです。戦争中はずっと日本に住んでおり、1946年に横浜からアメリカに渡航し、そこでその後の人生を送りました。1951年に再婚し、その翌年にはアメリカ国籍を取得しヤニネ・ギグリを名乗り始めました。残念ながら、彼女のその後の運命については不明ですが、1950年代には数回ヨーロッパに行っていたようです。このことについては、また次のインタビューでお話することにしましょう。もしかすると、誰かアデラの知り合いがこのインタビューを読んで、私たちに彼女に関する情報を共有してくれるかもしれません。また、祖父の弟であるアントニ・サマルダキェヴィッチについても、何か情報が見つかることを願っています。残念ながら、彼らを知っていそうな生き証人は減少傾向にあります。