10月革命とロシア内戦により、シベリアや満州に住んでいたポーランドの子どもたちは、
家を失い、貧困にあえぐことになりました。
彼らは現在、「シベリア孤児」と呼ばれていますが、
イエジ・ストゥシャウコフスキもまさにその一人であったのです。
1922年、12歳であったイエジは、
日本赤十字社をはじめとする日本の人々と、アメリカ在住ポーランド人の助けを受けて、ポーランドに帰国しました。
ポーランドに到着後、イェジは他の子どもたちとともに、
ヴェイヘロヴォにあるシベリア孤児のために特別に用意された教育施設で保護されることになりました。
第二次世界大戦が始まると、イエジ・ストゥシャウコフスキは歩兵第36連隊に配属されました。
ワルシャワのレギア・アカデミツカ(Legia Akademicka:1918年11月11日にポーランド軍組織のメンバーであったワルシャワの大学生を中心に結成された任意の軍事編成)で少尉に昇進し、
1939年10月、「反乱軍特殊部隊(Powstańcze Oddziały Specjalne)」という名の地下組織が設立されました。
後に本国軍はこの組織の司令官であるイエジ・ストゥシャウコフスキ氏に敬意を表して
「イエジキ」とこの部隊を名づけました。
ストゥシャウコフスキ氏は、謀略的な活動のほかに、
子どもや若者のための福祉・教育活動も行っていました。
占領下のワルシャワで初めての戦争孤児のための孤児院を立ち上げ、
駅や路上、家の瓦礫の下などで見つけた子どもたちを保護しました。
ユダヤ系の人々への人道支援や、イエジキ部隊内部でも秘密裏に教育活動を行いました。
1973年、イエジ・ストゥシャウコフス大佐は惜しまれつつも部隊での活動を引退しました。
数十年にわたる介護・教育活動を称え、「千の子の父」という称号を得ました。
その後18年間、多くの社会団体の活動に参加し、ハローワーク、病院、学校、職場などでの難しい問題に無私の心で対応し、
自らのわずかな年金収入で困っている人たちに物資の援助を行うなど、幅広い社会活動を展開しました。
ストゥシャウコフスキ氏は、子どもや若者の間でイエジキ部隊の独立闘争に関して語り継ぐことを目的として、
学校施設、孤児院、学校、教育センターで多くのカンファレンスを企画し、自ら参加しました