私は、1948年にエウクで生まれました。
妊娠7か月目で生まれた早産児でした。
エウクで小学校を卒業し、その後、兄が話した通り、グダンスクに家族で引っ越しました。
グダンスクで高校を卒業し、グダンスク工科大学で学びました。
僕はいわゆる「黒い羊」だったのでしょう。
祖父のミエチスワフや父のブロニスワフ、そして兄のアンジェイは機械系エンジニアになりましたが、
私は化学系エンジニアになったからです。
アンジェイ:でも、レナ叔母さんや父方の叔父は化学系エンジニアだったよね。
ズビグニエフ: ああ、確かにそうですね。
「灰色の羊」と言った方が正確かな。
アンジェイ: 弟が数歳だった頃、叔母のエレオノーラ(訳者註:前述のレナ叔母さんと同一人物)が、
さまざまなカットが施された小さなボトルのコレクションを大量に与えました。
すくなくとも、十数個か二十数個だったでしょう。
これが絶対に、ズビグニエフを化学系エンジニアに導いたんだと思います。
ズビグニエフ: 化学には、十代の頃に多分興味を持ったのだと思います。
そして、叔母からのプレゼントは、まさに私をとても支えてくれました。
ともかく、高校生の頃には化学にとても興味を持っていました。
家に、様々な実験をするための、小さなラボまで作っていたほどでした。
アンジェイ: 壁や天井にもラボが広がっていたね!
ズビグニエフ: まさにその通りで、隣人が私を村八分にせず、とても忍耐強くしてくれたことに驚いています。
自己紹介に戻ると、グダンスク工科大学を卒業した後、大学で数年働きました。
1975年に結婚して、2人の娘に恵まれました。
1981年に、3年間の博士研究員として家族でイギリスに引っ越しました。
ローマ人によって作られた古いヨークは、美しい都市でした。
1~2年ポーランドに戻った後に、ハンブルグのヨーロッパ生物分子研究所(Instytut Europejskiego Laboratorium Biologii Molekularnej)での、
シンクロトロン関係の仕事のオファーを受けました。
10年ほど、ここで快適に過ごしました。なぜなら、インターナショナルな研究所で、人々が英語でコミュニケショーンを取っていたからです。
日本人も含め、世界中の人がいました。
とても親切な、日本人のIsao Tanaka氏とも仲良くなりました。
化学者として、高分子、タンパク質、酵素、核酸などの結晶学を専門としているのですが、
その後、アメリカでシンクロトロン関係の講師の話が舞い込んできて、引き受けることにしました。
今もアメリカに住んでおり、すでに25年が経ちました。
2年前に引退しましたが、どちらかというと実践ではなく理論分野で結晶学に取り組み続けています。
アンジェイ: 弟に付け加えると、会議やセミナーのために彼は世界中を旅し、
さらにノーベル賞受賞者らと学術論文を発表していますよ。
ズビグニエフ: そうだね、様々な会議のおかげで世界中に行くことができました。
会議で訪れるついでに、少し滞在を延長して家族と観光をすることもできましたしね。
とてもいい思い出です。
アンジェイ:大変に博学な弟のことを誇りに思っています。
僕が彼に太刀打ちできるのは、クロスワードぐらいだからね。