アンナ・ビエルキエヴィチ
アンナ・ビエルキエヴィチは、シベリア孤児に関する一連の出来事の中でもっとも重要な人物かもしれません。
なぜなら彼女なしでは、孤児たちの救済作戦は行われなかったかもしれないからです。
1919年に「ポーランド救済委員会」の設立を決めた同氏は、
シベリア鉄道デザイナーであったポーランド人男性の娘でした。
彼女は1877年にロシアで生まれ現地で教師となり、
シベリアにいるポーランド人孤児たちの状況を知りました。
そして彼らを救うために自分にできることは何でもすると決めました。
1920年、東京へと渡り、防衛省に彼女の孤児救助作戦の援助を要請しました。
防衛省は、日本赤十字の支援を得るという彼女の意見に賛同し、
すぐに最初の子どもたちのグループが福井県の敦賀市に到着しました。
ポーランドのような遠い国に対する日本人の意識を高めるため、
ビエルキエヴィチ氏は『極東の叫び』という雑誌を出版することを決めました。
この雑誌はポーランド語、英語、そして日本語の3言語で書かれていました。
彼女はシベリア孤児の救助において早い段階から非常に重要な役割を果たし、
子供たちが確実に安全を確保し、無傷で故郷に戻るためにあらゆる努力をしました。