アンナ・ドマラツカ氏:インタビュー
インタビュー日:2022年3月1日
Anna Domaradzka(アンナ・ドマラツカ)
シベリア孤児であったレオポルド・クレーシャの娘。1953年にポーランド北東部のワピ(Łapy)で生まれる。
高校卒業後にビャーウィストック近郊の大学を終了後、現地の中等学校で1年間教師として勤める。
その後、ワルシャワ大学のポーランド学科修士課程に入学。
卒業後はワルシャワ大学図書館に就職。
1979年にユリアン・アンジェイ・ドマラツキと結婚し、
1981年に旦那のプリンストンでのポストドクターのために、ポーランドを離れる。
1981年12月にポーランドで戒厳令が出されたことを受け、当初約2年間であった滞在予定を延長させ、
その後、40年に渡って現在までアメリカに住み続けている。ロサンゼルス在住。
アメリカで生まれ育った2人の子ども(マテウシュとユリア)がいる。
本日はお時間をいただきありがとうございます。
シベリア孤児として、日本に滞在されたお父様についてお聞きする機会をいただき、大変嬉しく思っています。
まず初めに、お父様について教えてください。
アンナさんにとってお父様はどのような方でしたか?
私の父は、非常に落ち着いていて、責任感にあふれた良い人でしたが、同時にとても素朴な人でもありました。
私が生まれた時、父はすでに45歳でした。
遅くに生まれた子どもでしたが、その分、私のために時間を割いてくれていました。
父は冷静でバランス感覚に優れ、努力家であり、同時に非常に好奇心の強い人でした。
シベリアで生まれ、幼少期に戦争を生き抜き、日本・アメリカへの渡航を経験し、さらにその後ナチスドイツによる支配を経験したことが、
彼の人格形成に影響を与えたのではないかと思っています。
父は寡黙で、自身の言動に慎重な人でした。それと同時に、大変決断力があり、勇気のある人でした。
日本やアメリカでの子ども時代の経験やその後の人生について、父は私によく話してくれていました。
ですが、彼の昔話の中に、ポーランド帰国後数年間のエピソードがほとんど含まれていないことに最近気がつきました。
明確な理由はわかりませんが、彼にとって、大変厳しい時期であったのではないかと想像しています。
過去に何名かのシベリア孤児の子孫の方々にインタビューをさせていただきました。
その中で、シベリア孤児として来日した子どもたちにとって、その記憶、そしてその後の体験は
決して必ずしも好んで思い出したいようなものではなかったと理解しました。
また、私は現在ポーランドに住んでいますが、
最近の情勢で隣国ウクライナから父親が子どもと母親だけを国外へ逃がしている風景を目の当たりにし、
シベリア孤児が親と別れてポーランドへの帰還を目指した姿が、重なって見えることが度々あります。
歴史がいかに繰り返すのかは、興味深いことです。
ロシア革命を契機に、1920年代に日本とアメリカを経由して避難した多くの子どもたちにとって、
この道のりは恐ろしく悲惨なものでした。
69歳になった今になって、私の生きているうちに同じ状況を目の当たりにするとは、想像だにしませんでした。
子連れの母親がウクライナからの避難を余儀なくされているのを見ると、ぞっとします。
私が考えるに、ウクライナから逃げてきた子どもたちは、シベリア孤児たちと同様、
「戦争孤児」、ひいては「戦争の子どもたち」と表現することができるでしょう。
ロシア革命で生じた難民、そして今、戦争によって発生しているウクライナ避難民の子どもたち。
この子どもたちに、現在起こっていることを一体どのようにして説明できるというのでしょうか。
同時に、ポーランドによるウクライナからのすべての避難民に対する支援と異例の受け入れ体制に、非常に感銘を受けています。
行政が組織的に行う支援に留まらず、個人、そして何よりも多くのボランティアによる献身的な支援が行われています。
日本とポーランドが100年前のシベリア孤児の歴史を通じて現在まで友好関係を保っているのと同じく、
ポーランドとウクライナが今回の出来事を通じて、隣国として今よりもさらに良い関係を築いて行くことを願っています。
少し話題が変わりますが、アンナさんがまとめられたお父様の人生をまとめた手記の中で、
お父様はガーデニングを学ばれていたと読みました。
これには、何か特別な理由があったのでしょうか。
私の父とその姉妹は、帰国したシベリア孤児の中でかなり年上でした。
父(当時13歳)の姉らはポーランドに帰ってきた時点で16歳と14歳になっていたので、
帰国後すぐにポズナンで仕事を見つけました。
ですので、父はヴェイヘロヴォへは行かず姉らとともに残り、
ポズナン近郊のコジミンにある園芸学校で勉強を始めました。
一番上の姉は2年間働いた後、
他のシベリア孤児たちと一緒にヴェイヘロヴォの師範学校に通い始めました。
二番目の姉も、その1年後にヴェイヘロヴォに行きました。
(註:多くのシベリア孤児たちはポーランドへ帰国後最初に電車でポズナンに到着し、
その後、子どもたちのための宿泊施設や教育施設が完備された北部の街ヴェイヘロヴォに移動していました。)
父がヴェイヘロヴォに行かなかったのは、
本人の選択ではなく、おそらく周りの世話役の導きであったからでしょう。
いずれにせよ、職業学校に通っていたことから、
彼はヴェイヘロヴォへ行くことはなく、ポズナンで暮らすこともありませんでした。
ガーデニングを習得したのは本人の意思による選択ではなかったと思いますが、
人生を通して父は非常に自然を愛していた、と断言することはできます。
実家の周りには、いつも美しい花やいろいろな野菜、果樹の苗がたくさんありました。
当時の世話役が、父の興味関心を察してガーデニングの職業訓練校に入れたのかもしれませんし、
単なる偶然だったのかもしれません。
お父様が日本の自然について話すことはありましたか?
日本庭園や日本の公園について話していたの、を覚えています。
彼はいつも、日本の緑地がいかに美しく、植物がきれいに刈り込まれているか、手入れが行き届いているかを話してくれました。
そして、私が日本の桜のことを初めて知ったのも、父からでした。
どのように桜をはじめとする木々が、計画的に美しく植えられていたかについて、語ってくれました。
また、家屋建築について話していたのも覚えています。
質素ながらも生活に必要な機能の備わったシンプルな家であると教わりました。
また、居間で日本式の低いちゃぶ台の前に腰掛け、木製の箸で食事をした思い出を、何度も振り返っていました。
アンナさんは敦賀を訪問されたことがあるともお伺いしています。
現地に到着した際の、最初の印象についてお聞かせいただけますか。
敦賀への訪問は偶然に実現し、本当に素晴らしいものでした。
夫が奈良に会議出席のために出張する機会があったため、同行したのです。
奈良から敦賀に電車で向かったところ、シベリア孤児の娘だという理由だけで
敦賀で受けた忘れられないほど素敵な歓迎を受けました。
このようなことを全く期待していませんでした。
特に、2つの出来事が記憶に残っています。
1つ目はムゼウムに、シベリア孤児に関する展示があったことです。
想像もしていなかったことでしたので、シベリア孤児の敦賀への上陸に関しての展示を見ることができたのは、嬉しい驚きでした。
いまだにシベリア孤児に関する常設展示は、残念ながらポーランドには存在しないのです。
敦賀市長による暖かい歓迎を受けたことにも、忘れられない思い出としてご紹介しておきたいです。
二つ目の出来事は、敦賀駅から市役所まで車で向かっていた時のことです。
同乗していた若い敦賀市職員の方が、地元の小学校を通りかかったときに、
その学校がシベリア孤児が最初に上陸した際に最初に訪れた場所だと教えてくれました。
そしてさらに、彼がその学校の卒業生であるとも教えてくれました。
その小学校は私にとってシベリア孤児が最初に日本にきた際に最初に触れた「日本の魂」の象徴のようなものです。
小学校が現存していることを本当に素晴らしいと思うと同時に、
そこに通う生徒がシベリア孤児の歴史に関して知っていることを願っています。
次回日本に行った際には、リニューアルされたムゼウムを訪問できることを願っています。
敦賀は、昔も今も、私にとって日本の中で素晴らしい、特別な場所です。
敦賀の他に、アンナさんが日本でもっとも訪問したい場所はどこですか。
間違いなく、もう一度東京を訪れたいです。
シベリア孤児が滞在した福田会に、訪問したいと考えています。
2001年に日本を初めて訪問した際に東京を観光した時のことを、いまだに覚えています。
公園の散策中に、思いがけず皇居に出くわしたことが印象に残っています。
その時、私は父の皇后陛下の話を思い出しました。
貞明皇后は、日本赤十字社でシベリア孤児たちに会うために、日本史上初めて皇居を離れました。
こここそが私の父の歴史の一部であると強く感じました。
父を始めとする、シベリア孤児たちの物語に親しんだ今、父とその姉らが以前東京で訪れた場所をすべて再訪したいと思っています。
20年前とは全く違った滞在になることでしょう。
アンナさんのご家族について質問させてください。
ご親戚の中で交流のある方々はいらっしゃいますか?
皆さんの中で、お父様の日本滞在についてどのように語られているのか教えていただけますか。
私の父方の家族は、人数が母方の親戚に比べて多くありません。
父の姉の1人は、旦那さんが強制収容所でなくなっていますし、子どももいませんでした。
2人目の姉には息子が1人いましたが、すでに亡くなっています。
孫が1人、孫娘が1人か2人いるはずですが、残念ながら連絡先を持ち合わせていないのです。
ポーランド西部もしくはもっと遠いところにいると聞いています。
ただ、日本に渡ることのなかった4番目の兄弟には、2人の娘がいました。
長女は亡くなっていますが、2人目の娘とその息子とは親しい間柄にあります。
ポーランドの国会でのシベリア孤児のカンファレンスに関する情報や持ち合わせている資料は全て共有しています。
彼女は、シベリア孤児の歴史にとても興味を持っているのです。
彼らにとっては、ファミリーの歴史でもあるからでしょう。
彼女の父親は日本には行きませんでしたが、いつもシベリア孤児の歴史に興味を持ってくれています。
素晴らしい人たちです。
私の2人の子どもは、2人共アメリカに住んでいます。
息子は歴史好きで、シベリア孤児の歴史に関しても非常に興味を持っています。
2018年のカンファレンスの際には、2人ともアメリカからポーランドに私とともに足を運びました。
幸いなことに手元資料に英語訳がついていましたので、私の子どもたちも内容をより正確に理解することができました。
カンファレンスの最初から最後まで内容を集中して聞き、来場者の中で一番最後に退室したことに、母である私は驚きました。
彼らにとっても素晴らしい体験だったと思っています。
母親からこのような話を聞くのも良いですが、公共の場で様々な人の発表を聞くことは全く違う経験であると思っています。
様々な側面からのシベリア孤児に関する講演を聞くことができたのは、貴重で大切な機会でした。
お子さんは日本にいらしたことがありますか。
息子が一度日本に出張で訪問していますが、
非常に短い滞在であったので、敦賀や福田会を訪問することは叶いませんでした。
お二人が直接、お父様(お二人にとってのおじいさま)から日本滞在の話を聞く機会はあったのでしょうか。
娘と息子は幼すぎて、直接聞いた話はあまり覚えていないでしょう。
ただ、私が録音した父との会話のテープが残っており、彼らは時折その録音を聞いています。
シベリアを出てから、ポーランドに戻るまでのとても短い話ですが、録音していたことをとても幸運に思っています。
幼い時、若い時には自分自身の人生を築くことに手一杯ですから、先人の話をいつも詳しく覚えていられるわけではありません。
私はいつも、この特別な話を友人や聞きたいと思う人に話したいと思っていました。
今、私の手元に残っているのは、録音やメモ、厳選した書類、そして数枚の古いはがきだけです。
自分が年を重ねるにつれ、この家族の物語は私にとって特別なものとなり、
覚えていることや残っていることを書き留めなければならないと思うようになったのです。
子どもにとっても同じではないかと思っています。
家族の歴史に関しては、時がたつにつれて貴重なものとなるのではないかと思っています。
その通りかもしれませんね。
アンナさんをはじめとする子孫の方々が生の声を聞かせてくださることは、私たちにとって大変貴重で重要なことです。
現在ポーランドでシベリア孤児に関するパネル展を開催していますが、
歴史について記載をするだけでなく生の資料を掲載することはとても重要であると思っています。
より多くの人々に興味を持ってもらい耳を傾けてもらうには、
史実だけではなく、実際のストーリーをこういった形で広く知らせていくことがとても役に立つと思っています。
2023年9月に予定をされている式典に関してですが、アンナさんが式典に期待することはなんでしょうか。
私のようなシベリア孤児の末裔にとって大切なことは、他の同じような方々に会うことです。
過去に何年間で何名かにお会いしましたが、また皆さんに再会して、話したいことがたくさんあります。
もう一つ期待することは、シベリア孤児の歴史がより広く語られるようになることです。
ポーランド国内に広く知られ、多くのメディアに取り上げてもらうことができれば素晴らしいと思います。
私の世代、すなわちシベリア孤児の子どもの世代は大学に行き、教師、医者等様々な職業に就き社会に完全に溶け込んでいます。
シベリア孤児救済の成果としてこういった末裔が拡大し、ポジティブな連鎖を生み出しています。
100年前に子供たちを助けた、人間の魂がこのような素晴らしい連鎖を生み出しているのです。
100年以上前にシベリアの子どもたちを助けた人々が、この連鎖をスタートさせたのです。
日本、アメリカがポーランドの子どもたちを助けました。
それから100年以上経った今、思いがけず、ポーランドはウクライナの子どもたち、
すなわちシベリア孤児と同様に敵に脅かされる避難民の子どもたちを助けています。
私の世代は、戦争を経験しなかった最初の世代でした。
韓国やベトナム、ユーゴスラビアやシリア等では戦争が起こっていましたが、
個人的な戦争体験はしていませんでした。
私の人生の中で、今ウクライナで起こっているようなことが起こるとは想像だにしませんでした。
民主主義は本当に繊細ですが、非常に尊く大切なものです。
民主主義が崩壊するのは一瞬の出来事かもしれませんが、修復するのには数世代・膨大な数の人命が必要となります。
このことは、私たちが享受している自由、民主主義、そして他人を尊敬することのできる人生そのものが、
どんなに貴重であるかを示しています。
歴史は繰り返しがちです。
悪い企みを持つ人々に同じ負の歴史を繰り返させることのないよう、
シベリア孤児の歴史は語り継がれるべきであると思っています。
私たちの先祖が戦って勝ち取った平和を短期間のうちに壊す権利は誰にもない、ということですね。
非常に大切なメッセージだと思います。
最後に、若い世代にアンナさんから何か伝えておきたい言葉等はありますでしょうか。
慎重になってください。民主主義、自由を大切にしてください。
民主主義・自由の欠如は、一瞬にして全てを奪い、あなただけでなく全ての周りの人に影響を及ぼし、戦争にまで発展しうるのです。
私にとってもっとも大切なのは、子どもたちです。彼らにはなんの罪もありません。
何が起こっているのか理解していないのです。両親が自由のために戦っているということを理解するのは、難しいでしょう。
前の世代が築いてきた平和は、本当に簡単に壊されてしまいます。次の世代のために、良い将来を創造してください。
身の回りにある1つの命を救うことは尊いことです。
そんな中、ポーランド孤児救済委員会が組織的に1000人近くの子どもたちを救ったことは何にも勝る偉業であると言えるでしょう。
人間として成しうることの中で、もっとも素晴らしい行動だと思います。
人々が民主主義の下で生活ができる世界を守ってください。
いかなる権力にもそれを奪う権利はありませんし、許してはいけません。