スワヴォミル・サマルダキェヴィッチ氏:インタビュー

インタビュー実施日:2021年8月2日

Sławomir Samardakiewicz氏

ポズナンのアダム・ミツキェヴィッチ大学生物学部教員。25年前に妻のミレラ(Mirella)と結婚。
21歳のアンナと既に天国に行ってしまったクバの父親である。
趣味は旅行と風景写真を撮ることで、2001年に出張で日本を訪れ、
その時に偶然、日本にいたシベリア孤児の集合写真を目にし、
その中に自分の祖父を発見した。

インタビューにご協力いただき、ありがとうございます。コロナ禍という難しい状況ではありますが、こうしてオンラインでお話をお伺いすることができて大変嬉しく思っています。
早速ですが、シベリア孤児の歴史とご自身の繋がりについて、まずはご説明いただけますでしょうか?

私の祖父である、ヤン・サマルダキェヴィッチ(Jan Samardakiewicz) がシベリア孤児でした。
祖父は、1909年にシベリア西部のトムスク州(Tomsk)にあるマリヌフカ(Malinówka)という町で生まれました。
祖父には1911年生まれの弟アントニ(Antoni)と、1914年生まれの妹アデラ(Adela)という弟妹がいました。
アントニは、祖父と一緒に満州から日本に渡り、その後アメリカを経てポーランドまでの帰路を、すべて共にしました。
彼は、1930年代末にワルシャワに住んでいて、靴職人として働いていたという情報があります。
また、妹のアデラはハルピンに残りましたが、その後の人生で日本とアメリカとの繋がりを得ることとなりました。
1937年頃に、有名なアスリートでハルピンの中学校で教員をしていたヴァレンティ・クチンスキ(Walenty Kuczyński)と結婚したのです。ヴァレンティ氏は後にトブルク包囲戦やモンテ・カッシーノの戦いで英雄となりました。アデラは再婚し、オルモンド・ギグリ(Ormond Gigli)というアメリカ人の写真家とも結ばれました。

アントニもアデラも、子どもを残さずに亡くなったとされています。
一方、私の祖父であるヤンは、6人の子どもを残しました。そのうちの3名が今日も存命です。
私の母、テレサもその子どものうちの一人ですし、母のテレサにも私をはじめとする子孫がいます。

お祖父さんたちがどれほど粘り強く、精神的に強く生きなければならなかったかを想像すると、
サマルダキェヴィッチ家の祖先の皆様が辿られた運命に、驚かされます。

シベリアのポーランド孤児らの運命は、トラウマを伴うものであったということを強調しておかなければいけません。
家族を失ったシベリア孤児の子どもたちが、絶え間なく続く戦争下で、貧困・空腹・病気などから生き延びるために何をしなければならなかったのか、
想像することも難しいぐらいです。
ですので、シベリア孤児らの大多数は、大人になってからもこの経験について人に話しませんでした。
家族でさえ、シベリア孤児本人が亡くなる間際や、亡くなった後になってからその事実を知った、ということもしばしばあります。

スワヴォミルさんとお祖父さんのヤン氏は、どのような関係性にありましたか?お祖父さんがシベリアや日本にいたことを、直接聞いたりしましたか?

祖父はもともと、非常に秘密主義的な人で、思い出などについても自ら話したがりませんでした。
母によると、母が幼い時にまれに、祖父が幼少時代の思い出をぽつぽつと話してくれることがあったそうです。
全部で10個ほどのエピソードを、私たちは知っています。

私自身は、祖父と数回しか会ったことがありません。
数10キロ離れた場所に私たちは住んでいて、残念ながら滅多にお互いのところを訪れることはありませんでした。
16歳の時に、一人で祖父の元を訪れました。初めて祖父と二人で数時間過ごし、その時に初めて、祖父から直接シベリアからの帰還に関する話を聞きました。1985年のことでした。

この会話から35年が経ちましたが、今日のことのように憶えています。
祖父はまず初めに、彼らにとって人間が暮らしていく場所ではなかったシベリアでの苦しい状況、貧困、そして想像を絶する空腹について語りました。
生き延びるため、そして
食べ物を得るためにしばしば物乞いや盗みをしなければならなかった、とも話していました。
また、これは満州にいた時のことらしいですが、自分自身と家族のためのフルーツを手に入れるために、10歳にして、囲いの柵を飛び越えて果樹園に侵入していたそうです。
その時に有刺鉄線が体に刺さり、おなかと手の皮膚を切ってしまいましたが、果樹園のオーナーが祖父を救ってくれたそうです。
この時の傷は、彼の体に生涯残っていました。面白いことに、祖父自身は大人になってから庭師/果樹栽培者として働きました。

話は少し逸れますが、私の母は、大学生であった70年代初頭に、修士論文のためにポーランド方言資料の収集を目的に、祖父の故郷を訪れました。
そこで、祖父が第二次世界大戦時に若いポーランド人らがナチス・ドイツでの強制労働に連れていかれないよう助けた、ということを知りました。
祖父は戦時中、ドイツ人が所有する庭や果樹園で働いていました。腕の良い庭師であると同時に大変働き者で正直でもあったため、ドイツ移送をされそうになっているポーランド人を雇う合意を、オーナーから取り付けることができたのです。

すごいことですね。他にも何か、お祖父さんはお話なさっていましたか?

この時祖父は、庭師としての仕事への情熱も語っていました。
彼は、庭で実験をすることが好きで、特に、バラ栽培が彼の楽しみでした。今後の予定についても、私に話してくれました。
私は、またすぐに遊びに来て、続きを話そうと約束しました。
ですが、その1週間後に祖父が亡くなったと、いう知らせを受けました。まさに、青天の霹靂でした。
私は家族の中で、祖父が彼の子ども時代について話した最後の人間でした。

祖父が私に話をしてくれた時、とても疲れていたことには気が付いていましたが、祖父の最期が近づいているということには気が付いていませんでした。

おじい様に心から哀悼の意を捧げます。
最期のタイミングにお祖父さんとお話し、その記憶がスワヴォミルさんに継承されていたことを、ありがたく思います。

ご自身でも、何かシベリア孤児やお祖父さん自身に関する情報を収集なさったりはしていますか?

日本で、祖父の形跡を見つけたことについてお話したいと思います。
ちょうど20年前に、私は仕事で名古屋で会議に参加していました。その合間に、近くにあった博物館”明治村”を訪れました。ある建物の中に入り、階段を登ると、突然、壁に大きな写真が現れました。
大型客船があり、そこに乗った大勢の子どもたちがハンカチを振っていました。
子どもたちは、ヨーロッパ人の見た目でした。

明治村の展示で飾られていた写真

この写真の説明を見たとき、唐突に私は混乱しました。
そこにいたのはシベリアからポーランドに帰還した子どもたちであり、
祖父が写っているはずだったのです。
そのとき、激しい感動の念が湧いてきました。
日本赤十字社に関する展示で写真が飾られており、シベリアからのポーランド孤児の救済は、
日本赤十字社にとって初めての国際的な人道支援事業だったのです。

スワヴォミルさんにとって、特別な瞬間だったにちがいないでしょうね。お祖父さんのお写真を、それまでにご覧になったことはありましたか?

実のところ、祖父のアルバムは何度か見たことがある程度でした。
アルバムには、満州滞在当時に撮影されたものなどがありましたが、日本滞在中の写真は一つもありませんでした。
ですが、祖父の1枚目の日本での写真を見つけられたのは、皆さんのおかげです。
どの子どもが祖父なのか、私には問題なく分かりました。
祖父の隣には、弟のアントニが写っていました。(彼らは集合写真で、いつも隣同士で写っていました。)

ヤン・サマルダキェヴィッチ氏

多くのことが、偶然に発見されたのですね。新しい写真を見つけるお手伝いができ、とても嬉しく思っています。
ところで、どうしてお祖父さんがシベリアにいたのか、ご説明いただけますか?
どういった経緯でお祖父さんはシベリアの地から日本へ行くことになったのでしょうか?

祖父と弟妹のストーリーは、ロシアの西部シベリアにあるトムスクの地から始まります。
彼らの父親は、アレクサンドル・サマルダキェヴィッチ(Aleksander Samardakiewicz) で、母はエミリア(Emilia)でした。母は、パヴウォヴィッチ(Pawłowicz)家で1893年に現在ベラルーシに位置するグラウジェ(Grauże)で生まれました。

エミリアがどのような経緯でシベリアにたどり着いたのかは分かりませんが、
ロシア帝国により、パヴウォヴィッチ家が移住を強いられたからかもしれません。
エミリアが自分の子どもたちに植え付けた、深い愛国主義的考え方から察するに、そのような思想が原因で多くのポーランド人がシベリア送りとなったことが関係しているかもしれません。

エミリアについては、私たちは何も知りませんが、1920年には、未亡人として3人の子どもと一緒に満州にいたようです。
1917年に勃発したロシア内戦中に、多くのポーランド人は満州、とりわけその首都ハルピンを避難場所と認識していました。
ハルピンには当時、強いポーランド人コミュニティがありました。
加えて、あまり知られていない事実ですが、現在では都市圏全体で1000万人ほどが住んでいるハルピンは、東清鉄道建設中の1898年にポーランド人のエンジニア、アダム・シドゥウォフスキ(Adam Szydłowski)によって作られた街なのです。

知らなかったです。ポーランド人が歴史上の思いもよらないタイミングで登場するものですね。

まさにそうですね。
祖父の母、エミリアは、シベリアから退避する人々のグループと一緒にハルピンにやってきたのだと思います。
トムスクで当時流行していたチフスが、退避の直接的な理由であったと、私の家族の中では語られています。

エミリアは、とても難しい状況におかれていました。
女手一つで3人の子どもを育てるために、一家を養えるだけ稼いでいく必要もあったのです。
家政婦として働いていましたが、それだけでは生きていくのに足りませんでした。
なので、子どもたちを孤児院に引き渡さなければいけなかったのです。

子供たちのポーランド帰国が決まったとき、エミリアは母親の心から血を流すような思いだったに違いありません。それと同時に、この帰国が子供たちにとってより良い明日を迎え、そして夢に見た故郷に戻るためのチャンスであるとも考えました。

ヤンとアントニは、ハルピンから約300kmに位置する ムリン(Mulin)駅の近くの保護施設にいました。
この保護施設はスタニスワフ・ソコウォフスキ(Stanisław Sokołowski)の助けを借り、ポーランド赤十字社によって運営されていました。
この場所から、ウラジオストックに移送され、1920年9月の中頃に日本の敦賀港に船で送られました。
エミリアは末っ子のアデラと満州に残りました。

このアデラの物語は、また別のインタビューでお話したいと思います。彼女もとても数奇な人生を送りました。

アデラさんのお話にもとても興味を惹かれます。きっとすばらしい内容になるでしょうね。
ところで、日本にやってきた後、お祖父さんと弟さんはどうなったかご存じですか?

祖父と弟のアントニは、日本には1920年の9月から12月と比較的短い期間しか滞在しなかったようです。
12月には、彼らは他の子供たちと一緒にアメリカに出発したのです。シアトルの港からは、電車でシカゴに行きました。
そこで、アメリカのポーランド人コミュニティのお世話になりました。祖父は現地で中学校に通い、そこで園芸分野の知識と技能を身につけました。
この経験が後に、ポーランドで役立ったのです。

アメリカ滞在について詳しいことはわかりません。
この時期の思い出の品の中から、唯一、ルイズ・カスペレク( Louise Kasperek)(旧姓:ウチュチヴェック(Uczciwek))の住所を見つけました。
おそらく当時、この方がサマルダキエヴィッチ兄弟を助けたのでしょう。

ポーランド人コミュニティの家族が、子どもたちにアメリカに残るように勧めていたことも付け加えておかなければいけません。
そして、実際に子どもたちの一部はアメリカに残りました。ですが、祖父と弟のポーランド帰国への決意は非常に固く、
1922年の初めに、ポーランドへの旅の最後の旅路であるニューヨークからブレーメンの港まで、他の子供たちと一緒に出発しました。
ブレーメンからは、電車でポーランドのポズナンまで行きました。

幼い子どもたちが、ここまで強く母国に帰りたいと願っていたことに、インスピレーションを受けました。

ええ、私はいつも彼らに称賛の気持ちを感じます。
ヴィエルコポルスカ(訳者注:ポズナンが所在する県)では、チャリティー団体が子どもたちの世話をしました。残念ながら、ヴィエスワフ・タイス教授が著書で記載しているように、子どもたちはしばしば危険な状況におかれてもいました。
このような背景があり、ヴェイヘロヴォにシベリアの子どもたち向けの特別施設を設立する、というイニシアティブが起こりました。
祖父が日本からポーランドに到着した後のことでした。祖父は弟と一緒に、ブロニシェヴィッツェ(Broniszewice)の孤児院に辿り着きました。

世話役のリーダーである婦人が書き残した、「彼は当時、模範的な子どもであり、誠実で公正だった」という文書以外に、祖父のこの場所での想い出は残っていません。
この後祖父は、後見人によって、後にポズナン大司教となった国際カリタスのディレクター、ヴァレント・ディメク(Walenty Dymek)神父のもとに送られました。そこで、当時ポズナンのシェロング(Szeląg)地区で近代的な農場を営んでいたエドワード・ネツル(Edward Netzl)の元で、庭師見習いをすることになりました。これを契機に、祖父であるヤンは、社会人としての一歩を踏み出し始めました。第二次世界大戦前に、彼は私の祖母となるノヴァク(Nowak)家のヤドヴィガ(Jadwiga)と結婚しました。その後、6人の子どもを授かり、その中に、私の母であるテレサがいました。祖父母は大人数の子どもたちを育てるために、必死で働きました。 祖父は子育てと同時に、将来自分で園芸業を始めるためにお金を節約していました。残念ながら、1950年代に共産主義下で日々通貨切り下げが行われたことで、祖父の貯金は大幅に目減りしてしまいました。彼にはもはや、自分の農場を買う余裕はありませんでした。ですので、祖父は低賃金な国営農園で働かなければならず、子どもたちも仕事をする必要がありました。 

サマルダキェヴィッチ家はヴィエルコポルスキ(Wielkopolski)県内で、何度も引っ越しをしました。
1962年に私の祖母であるヤドヴィガが亡くなりました。
私の祖父はついに、ポズナン近くのイェジコヴォ(Jerzykowo)に定住し、定年まで、この場所からポズナンの公園管理局(poznański Zakład Zieleni Miejskiej)に通勤しました。
そして、ポズナン国際見本市でも庭師として働いていました。見本市で中国や日本の代表団に、目立たない庭師の自分が中国語や日本語で話しかけて驚かせていた、と祖父は私に話してくれました。
ここで、祖父は生涯きれいなポーランド語を話していたということにも、言及しなければいけません。
ロシア語といった、彼が幼少期に身に着けた他の言語のなまりなどの影響はありませんでした。
シベリアのポーランド人に対する非国家化を目指したロシア当局からの強い圧力にもかかわらず、私の祖父はロシア化されませんでした。
彼の家族が、ポーランドへの愛国心を持っていたおかげです。

子ども時代に学んだことがお祖父さんの社会人生活でも活かされたのは、素晴らしいことですね。
他に何か、お祖父さんが長く覚えていらっしゃった日本滞在中でのエピソードや思い出の品などはありますか?

先ほどお話したように、祖父は中国語や初級の日本語を話すことができました。
彼にとって日本滞在は、日本語の詩のフレーズを借りて表現するなら、「希望の日の出」のようなものでありました。
彼の人生の中で、日本滞在が最も希望ある時間の一つだったことと思います。
同時に、日本海の向う側に自分の母親と愛する妹をおいてきていた、ということも皆様には覚えておいてほしいです

さらに、当時11歳の少年であった祖父は、弟の面倒を見る責任も負っていました。
加えて、「この後私たちはどうなるのだろうか?」という不安な思いもありました。
日本滞在時の思い出の品には、Takao Atsumi氏のサインが書かれたポストカードがあります。
サインのとなりには、「24歳」と追記されています。

福田会で祖父にとても親切にお世話をしてくださった方のサインではないかと想像しています。
Takao Atsumi氏が祖父にとって大変大切な人であったので、このポストカードを思い出の品として生涯大切にしていたのではないかと思います。
その福田会がこのように末裔を探してくださり、ありがたく思っています。
いつか、皆様と一緒にこのTakao Atsumi氏についても解明したいと思っています。

ご親戚の皆様の間で、シベリア孤児に関する歴史は語り継がれていますか?ご家族の中で、お祖父さんの思い出話はよくされていますか?

長い間、私たちのファミリーでは時々思い出話をする程度で、特別に祖父の思い出を語ったりすることはありませんでした。
数か月前に祖父についての新しい事実を発見してから、彼に関する話を再びしはじめるようになりました。
特に、私の母といとこのエヴァ(Ewa)が熱心に取り組みました。

それでもまだ、1960年代までヤニネ・ギグリ(Janine Gigli)と名乗って生きたアデラの運命についてなど、多くの疑問が残っています。
とりわけ謎に包まれているのは、1937年にワルシャワにいた以降消息が途絶えていたアントニの運命についてです。

彼らの運命についても、新しい発見があることを強く願っています。
家族の情報を集めるモチベーションは、どこから来ているのかお伺いしてもよろしいでしょうか?

私やそのほかのシベリア孤児の家族にとって、この情報収集は、彼ら自身やその運命が忘れ去られてしまわないための確かなミッションのようなものです。
さらに、シベリア孤児についてだけでなく、助け合いの精神で子どもたちを助けたすべての人々や、福田会のような組織を記憶していくことも念頭においています。

この100年前の歴史について話し、調査を進めることは、ポーランドの子どもたちを助けた善意の人々への感謝の形を示すことにもなるのです。
また、もし彼らがいなければ、今日、私たちがこうしてお話しすることはなかったということも、忘れてはいけません。

社会福祉法人福田会も、彼らのことを記憶に残していくために、シベリアの子どもたちの歴史や関連情報を広めたいと思っています。
もちろん、この歴史が必ずしも幸せなものではありませんでしたが。

このようなプライベートな話を他人に話すことについて、スワヴォミルさんご自身はどのように感じていらっしゃいますか?

当事者にとってしばしば、この道のりはトラウマ的で忘れてしまいたいような出来事でした。
私たちは、シベリアの子どもたちの子孫として、直接この経験を背負っていないからこそ、彼らの物語について代弁ができるのだと思うのです。
このような方法で、他の方にもこの歴史を知っていただくと同時に、我々の祖先であるシベリア孤児のトラウマを乗り越えることもできると考えています。

そうですね。
シベリアから帰還した人々が自身でやりきれなかったことを完了するために、とても重要なことだと思います。
ご自身のご家族以外で、シベリアからの帰還という史実について知っている方をご存じですか?

正直にお話すると、祖父のシベリア帰還の物語について様々な人にお話しするなかで、1度だけその聞き手がシベリア孤児について知っていたということがありました。
その方はポーランド人宣教師で、30年以上日本に住んでいました。2020年に彼にお会いした際、「日本の子どもたちは、この史実について学校などで紹介されるためよくこの物語について知っている。」と話していました。実際に日本中の学校で広く紹介されているかどうか、私は知りませんが、この話を聞いてとても感激しました。特に、ポーランドの子どもたちは、歴史の授業で、アメリカの南北戦争時の関税といったことついては学ぶが、シベリアから逃れたポーランド人の運命については学ばない、という事実があります。シベリアでのポーランド人の子どもたちの悲痛な運命についてというテーマですと、第二次世界大戦中のソ連によるポーランド人のシベリア送還についてのほうが、より広くポーランドで知られていると思います。この時の子どもたちの中には、今日もご存命な方もいます。

先に申し上げたシベリア送還の話に付け加える形で、1920年代の日本によるシベリアの子どもたちへの人道的支援についても紹介する価値があるでしょう。その20年後の1941年に、5000人近くのポーランド人の子どもたちが、ディグヴィジャイシンジ(Digvijaysinhji)氏という善良な大王のおかげで、インドで保護されました。

シベリアから帰還した子どもたちの物語は、第二次世界大戦前にはポーランドの著名な作家ゾフィア・ナウォコフスカ(Zofia Nałkowska)の短編小説「兄弟(原題:Bracia)」などによって、学校の教育課程に登場しました。ですが、第二次世界大戦後、この史実については沈黙が貫かれました。なぜなら、ソ連にとって都合の悪い話題だったからです。当事者たちが自分の経験について話したがらなかったのも、共産主義支配下にあったという状況に一因があるとも言えるかもしれません。今日となっては、この話題について語るのを妨げるものは何もありませんし、実際より頻繁に、シベリアから帰還した子どもたちに関することが語られるようになってきています。

さらに多くの若者がこの史実の継承問題について興味を持ってくれることを期待したいですね。
日本人やポーランド人の間で、この史実がさらに広く知られるべきだと考えていらっしゃいますか?

ローマの詩人で哲学者のキケロは、2000年以上前にこのような言葉を書き残しています。

Historia magistra vitae est :歴史は人生の教師である」

日本にも、過去の教訓から学び、将来起こりうる失敗を回避するという、このことわざのような考え方が存在していることと思います。
自然なことではありますが、若者は将来に目を向けていて、はなから歴史を学ぶことを否定してしまうことがあります。これは、間違っています。
このような若者に対しては、彼らの同世代からこの物語が語られると、より届きやすいと思うのです。
このような背景から、シベリアから帰還した子どもたちに関する物語に若者に親しんでもらうべきです。

先ほど言及いただいた学校教育の他に、どのような取り組みがこの歴史を広めるためのきっかけとなりうるでしょうか?

学校での子どもや青少年への教育は、欠かせないと思います。教科書に記載された情報だけでなく、当事者の子孫たちや、歴史家、この史実に関連する人々などと学校で直接会う機会を作るといった取り組みが必要でしょう。

個人的に、私にとっての重要な情報源は、一般書籍や学術書、当事者による当時の回想録などです。特に、『シベリアの子どもたち 1919-2019 ~シベリアから日本やアメリカを通ってポーランドへ(原題:Dzieci Syberyjskie 1919-2019. Z Syberii przez Japonię i Stany Zjednoczone do Polski)』(ヴィエスワフ・タイス教授著、2020年、日本美術技術博物館出版)の極めて包括的な研究を高く評価しています。

次に重要な要素は、博物館での展示会です。ですが、忙しい人々にとっては、博物館に通うのは難しいこともしばしばあるでしょう。
そういうわけで、博物館も最近では、人々がいるところに出張して、パネル展を開催したりするのです。
ですので、昨年福田会がクラクフで実施したような屋外パネル展のアイディアを、とても気に入っています。このような手法で、シベリアから帰還した子どもたちに関する情報が通行人に直接、偶然の形で届くのです。
この物語との偶然の出会いが、通りかかった人に感動や考えるためのインスピレーションを与えることになることもあるのです。

今日では、インターネットが人々にとっての主な情報源となることが多いですね。私自身も、インターネットを通して、今になって、祖父やその弟妹の人生に関する重要な情報を見つけています。例を挙げましょう。戦後、祖父は自身の弟妹を探していました。残念ながら、2人とも行方不明者であるという情報しか当時は得られませんでした。ところがなんと、2021年になって、70年以上も探してきたアデラが第二次世界戦争を生き延びていたという情報を偶然インターネットで見つけることができたのです。戦争中はずっと日本に住んでおり、1946年に横浜からアメリカに渡航し、そこでその後の人生を送りました。1951年に再婚し、その翌年にはアメリカ国籍を取得しヤニネ・ギグリを名乗り始めました。残念ながら、彼女のその後の運命については不明ですが、1950年代には数回ヨーロッパに行っていたようです。このことについては、また次のインタビューでお話することにしましょう。もしかすると、誰かアデラの知り合いがこのインタビューを読んで、私たちに彼女に関する情報を共有してくれるかもしれません。また、祖父の弟であるアントニ・サマルダキェヴィッチについても、何か情報が見つかることを願っています。残念ながら、彼らを知っていそうな生き証人は減少傾向にあります。

インターネット上のあらゆる情報から、これほどまでの発見があるとは驚きです。

その通りですね。ですので、シベリアから帰還した子どもたちの物語が、インターネット上でも語られることが重要です。
福田会とASAGAOが協力して作成している、このウェブサイト(siberianchildren.pl)もその一つです。このテーマに関する映像作品が、インターネット上で見られることにも、喜んでいます。 最近、
『アンジャ – ある女の子の旅路 (原題:Andzia – historia jednej podróży)』がクロトフィラ協会(Stowarzyszenie Krotochwile)より公開されました。
この作品の英語版や学校版も、作者は準備しているそうです。とても良いアイディアだと思います。

私たちのウェブサイトを、スワヴォミルさんが見つけてくださり、お話をお聞かせいただけたことをとても嬉しく思います。

シベリアの子供たちの歴史をもっと知ってもらうためには、様々な方法があると思います。
ですが、その中でも、この物語の生きた証となるのは、現代を生きる人々と、その繋がりだと思います。
2022年開催予定の記念式典は、ポーランド人と日本人にとってだけでなく、他の人々にとっても特別で貴重なものとなるに違いありません。重要なのは、このようなタイプの会合をするためのプラットフォームを構築することです。日本ポーランド青少年協会のような留学を支援する活動があることも、嬉しく思っています。

私たちは、両国の若い世代ができるだけいい形で交流していけるよう、あらゆる努力をしています。
ポーランドと日本が最良の関係を築けることを、願っています。

Hope for Mundial(Nadzieja na Mundial)が主催する、児童養護施設の子どもたちのサッカーワールドカップという活動にも、大変感激を覚えました。ポーランドと日本のサッカー少年・少女も参加していたと聞いています。新型コロナウイルスの状況が落ち着いた後に、この活動が再開し継続していくことを願っています。スポーツでの競争は実は、人々を近づけます。昨年の東京オリンピックで、そのことを私たちは体感することができましたね。私は、ポーランドのバレーボールチームを応援していました。日本はポーランドに負けてしまいましたが、その勇気と試合に向けた素晴らしい準備に、称賛の念を抱きました。

ワクワクしますね!私も日本対ポーランドのバレーボールの試合を、とても楽しんで観戦しました。

毎年、日本に関連するイベントがあると嬉しいですね。昨年は東京オリンピック、今年はシベリア孤児のポーランド帰還100周年記念式典が予定されています。福田会が主催するこの記念式典に対して、何かスワヴォミルさんからのアドバイスはありますか?

新型コロナウイルスの影響で、2回延期になったとお伺いしています。ポーランドには「三度目の正直(原語:do trzech razy sztuka)」ということわざがあります。良いことをしても、最初は大きな困難に直面することがよくあります。なので、この状況を逆手に捉えると、現状は良い兆候であるとも解釈できると思うのです。福田会がこのような式典を主催することを嬉しく思うと同時に、この式典がシベリアから帰還した子どもたちの歴史を知るだけでなく、ポーランドと日本の更なる関係強化につながると信じています。

我々もそう願っています。子孫の家族の小規模な会合などといった、式典以外のイベントが開催されたら、参加にご興味がありますか?

端的にお答えすると、そのような形の会合を心待ちにしています。
新しい仲間を作り知識を広げる一方で、自分が祖父やその弟妹の運命についてどのように知ることに成功したかを、他の人たちにもちろん共有したいです。

今日はインタビューにお時間をいただき誠にありがとうございました。最後に何か付け加えたいことはございますか?

このインタビューの終わりに、イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)を訪れた時のことをお話します。この場所には、第二次世界大戦中に殺害されたユダヤ人の子どもたちのために捧げられた特別な建物があります。この建物は、大戦中に命を落とした2歳半の男の子、ウジエル(Uziel)君の両親の寄付で建設されました。中に一歩足を踏み入れると無限に続くキャンドルの光に照らされた暗闇が続きます。ですが、これは目の錯覚で、実際にはキャンドルは1本しかなく、張り巡らされた鏡に写ることでキラキラとたくさん光っていたのです。これは、ウジエル君がもし生き延びていたら彼を起点に繁栄していったであろう、子孫を表現しています。この演出は、「一人の命を救う者は、全世界を救う」というタルムードの有名な言葉も暗示しているのでしょう。

日本の皆さんは、もしかすると、100年前に私の世界(ファミリー)を含む多くの世界の人々をどれだけ救ったかについて、気づいていないかもしれません。手を差し伸べてくださったことに、心から感謝しています! 

インタビューにご協力いただき、誠にありがとうございました!