インタビュー日時:2022年11月2日
シルヴィア・バラノフスカ(Sylwia Baranowska)– ブロニスワフ・ダウテルの継娘、ズビエグニエフ、アンジェイの異母兄弟。教育者・図書館司書として長年勤めた。
ズビグニエフ・ダウテル(Zbigniew Dauter) – ブロニスワフ・ダウテルの次男。アメリカ在住の化学者。
アンジェイ・ダウテル(Andrzej Dauter) – ブロニスワフ・ダウテルの長男。機械系エンジニアとして長年勤めた。
ブロニスワフ・ダウテル(Bronisław Dauter)(当時10歳)、ヴィトルド・ダウター(Witold Dauter)(当時3歳)、エレオノーラ・ダウテル(Eleonora Dauter)(当時11歳) の3名が、
シベリアからポーランドへの帰還者の第一便リストに掲載されている、シベリア孤児の子孫である。
インタビューの機会をいただき誠にありがとうございます。まずはそれぞれ自己紹介をお願いいたします。
私はヴィリニュスで生まれ、ビャウィストック(Białystok)に住んだ後、エウク(Ełk)で育ち高校を卒業しました。
1960年に父の仕事のために、私は大学進学のためにグダンスクに引っ越しました。
そして、1968年に大学を卒業し、機械系エンジニアの職に就きました。
また、1964年に結婚した妻のヤニナとは、彼女が亡くなるまで56年間連れ添いました。
1966年生まれの息子が1人おり、二人の孫は現在ワルシャワに住んでいます。
とても難しい世の中でしたが、妻とはとても幸せな日々を過ごしました。
アルジェリアに少しの間仕事で行き、少し世界を旅しました。
たくさん旅したわけではありませんが、あちこちに行きました。
フランスやスペイン、バイエルン地方やバルカン半島を訪れました。
また、妻と私は踊ることが大好きでした。
舞踏教室に通い可能な限り踊っていました。直近では十数年間、50歳以上向けの舞踏教室に通い続けています。
(私は現在も、妻は亡くなる直前まで)踊りは私たち夫婦の共通の情熱であり、
さまざまな種類の舞踏会 (大晦日やカーニバル)で受賞することにもつながりました。
アマチュアダンサー向けのコンクールで、いろいろな王冠やトロフィーを獲得しました。
私自身、片手では数えられないぐらい多趣味であることが自慢です。
例えば、クロスワードパズル、 ブリッジゲーム、舞踏、料理や詩を書くことなどです。
まだ挙げられますが、とりあえずこのぐらいにしておきましょう。
私は、1948年にエウクで生まれました。
妊娠7か月目で生まれた早産児でした。
エウクで小学校を卒業し、その後、兄が話した通り、グダンスクに家族で引っ越しました。
グダンスクで高校を卒業し、グダンスク工科大学で学びました。
僕はいわゆる「黒い羊」だったのでしょう。
祖父のミエチスワフや父のブロニスワフ、そして兄のアンジェイは機械系エンジニアになりましたが、
私は化学系エンジニアになったからです。
アンジェイ:でも、レナ叔母さんや父方の叔父は化学系エンジニアだったよね。
ズビグニエフ: ああ、確かにそうですね。
「灰色の羊」と言った方が正確かな。
アンジェイ: 弟が数歳だった頃、叔母のエレオノーラ(訳者註:前述のレナ叔母さんと同一人物)が、
さまざまなカットが施された小さなボトルのコレクションを大量に与えました。
すくなくとも、十数個か二十数個だったでしょう。
これが絶対に、ズビグニエフを化学系エンジニアに導いたんだと思います。
ズビグニエフ: 化学には、十代の頃に多分興味を持ったのだと思います。
そして、叔母からのプレゼントは、まさに私をとても支えてくれました。
ともかく、高校生の頃には化学にとても興味を持っていました。
家に、様々な実験をするための、小さなラボまで作っていたほどでした。
アンジェイ: 壁や天井にもラボが広がっていたね!
ズビグニエフ: まさにその通りで、隣人が私を村八分にせず、とても忍耐強くしてくれたことに驚いています。
自己紹介に戻ると、グダンスク工科大学を卒業した後、大学で数年働きました。
1975年に結婚して、2人の娘に恵まれました。
1981年に、3年間の博士研究員として家族でイギリスに引っ越しました。
ローマ人によって作られた古いヨークは、美しい都市でした。
1~2年ポーランドに戻った後に、ハンブルグのヨーロッパ生物分子研究所(Instytut Europejskiego Laboratorium Biologii Molekularnej)での、
シンクロトロン関係の仕事のオファーを受けました。
10年ほど、ここで快適に過ごしました。なぜなら、インターナショナルな研究所で、人々が英語でコミュニケショーンを取っていたからです。
日本人も含め、世界中の人がいました。
とても親切な、日本人のIsao Tanaka氏とも仲良くなりました。
化学者として、高分子、タンパク質、酵素、核酸などの結晶学を専門としているのですが、
その後、アメリカでシンクロトロン関係の講師の話が舞い込んできて、引き受けることにしました。
今もアメリカに住んでおり、すでに25年が経ちました。
2年前に引退しましたが、どちらかというと実践ではなく理論分野で結晶学に取り組み続けています。
アンジェイ: 弟に付け加えると、会議やセミナーのために彼は世界中を旅し、
さらにノーベル賞受賞者らと学術論文を発表していますよ。
ズビグニエフ: そうだね、様々な会議のおかげで世界中に行くことができました。
会議で訪れるついでに、少し滞在を延長して家族と観光をすることもできましたしね。
とてもいい思い出です。
アンジェイ:大変に博学な弟のことを誇りに思っています。
僕が彼に太刀打ちできるのは、クロスワードぐらいだからね。
私は生まれも育ちもグダンスクで、
今日までずっとこの地で暮らしています。
教育学部を卒業して、様々なポジションで20年間教育に携わりました。
その後、大学院で図書館学と情報科学を研究しました。
このようにして、40代前半にして修士号を取得しました。
まずは小学校の、そして学術機関の図書館で働きました。
最後に働いたのは、グダンスク工科大学の土地開発学部と環境工学学部の図書館でした。
人生はとても面白いもので、父が50歳から晩年まで学部長を務めていた学部の図書館で働いたのです。
なので、廊下から階段まで、文字通り父の足跡をたどることになりました。
工科大学で働いていた母も同様にです。
母がブロニスワフに大変な恋に落ちたので、
私がダウテル家の一員になりました。
アンジェイの父とヤネック(Janek)の妻が出席した、私の姉妹のパーティーに母が出席したとき、
私はおそらく10歳でした。母はそこで知り合った男性(訳者註:後に恋に落ちるブロニスワフを指す)にとても感激して帰ってきました。
その2年後に、彼らは結婚しました。
母は2人の娘を、父は2人の息子を連れて来ました。
このようにして、ステップファミリーが出来上がったのです。
実父は私が3歳半の時に亡くなったので、
継父は私にとって父親のような存在でした。
すべての人々に私の継父のような父親がいることを心から願っています。
ハイキングに夢中にさせ、ハイキング後の疲労感の喜びを教えてくれました。
継父は屈強で、写真の撮り方も教えてくれました。
思春期のひよっ子に光を当ててくれました。
継父のおかげでロシア語に堪能になり、
後に外国での案内役も務められるようになりました。
また、私に自信を与えてくれ、
いつも継父がサポートしてくれているという感覚を持っていました。
一方、私の息子のマチェイ(Maciej)は、バイオテクノロジーで博士号を取得した後、まさにシンクロトロン関係の博士研究員としてパリ郊外に滞在しました。
シンクロトロンもまた、
私たち家族を結ぶ要素だと言えますね。
現在、息子はグローバル大企業でプログラマーとして働いており、
専門分野に関連する仕事はしていません。
学術の世界で仕事を探すのは大変ですので。
ガールフレンドとグダンスクで暮らしているので、
私たちは頻繁にお互いを行き来して一緒に寿司を食べたりしています。
どのようにして、皆さんは自分の家族がシベリアから日本を渡って祖国に帰ってきたと言うことを知ったのですか?
何か、ご家族の中で語り継がれているストーリーや歴史資料があるのでしょうか?
アンジェイ: 福田会がシベリア孤児の子孫を探す活動をしていることを、とても嬉しく思っています。
みなさんの活動のおかげで、100年前に日本で何が起こったか、私が知ることになったからです。
私たちが祖父母や両親から聞いていた話はとても断片的で、ほとんど情報を持っていなかったのです。
私の祖父母がまだ生きていた頃、熱田丸で子どもたちと一緒にポーランドに渡ったことを、
なぜ私たちはほとんど何も知らされなかったのだろうと、少し驚かずにはいられません。
これらのこと、特に日本での滞在がまったく話題にならなかったのがなぜだか、わかりません。
完全に断片的な思い出だけ聞きました。
日本へ向かった船は「帝国丸」、ロンドンへ向かった船は「熱田丸」だったと、船の名前を教わりました。
そして、ポーランドへ出航したのです。
これ以外には何の情報も私たち家族は知りませんでした。
祖父は私が14歳の時に亡くなりました。
少なくとも私には、もう少しいろいろ話をすることができたことでしょう。
弟は当時幼かったですが、それでも祖母は祖父より長生きしたので彼女が話をしてくれました。
私が見つけたシベリア孤児名簿には、父が姉妹のエレオノラと弟と一緒に記載されています。
このリストが、そもそも私が福田会の皆さんにコンタクトを取るきっかけとなったものです。
しかし、父もほとんどシベリアからの帰還について語ることはありませんでした。
ズビグニエフ: 父は当時10歳だったので、その時のことも良く覚えているはずなのだけれどね。
アンジェイ: 間違いないね。ただ一つ、なんとか覚えているのは、父が祖父がシベリア孤児と何らかの関わりがあると言っていたことだけです。
どの程度、どのような形で関わっていたかは、分かりませんでした。
でも、おじいちゃんが子どもたちのいる部屋に入ると、すぐに「猫背!」と叫んで、
座っている子どもたちに背筋を伸ばし猫背にならないようにしていたことを覚えています。
ズビグニエフ: 私たちが幼く、エウクに住んでいた頃、両親と一緒によく祖父母を訪ねていたのを覚えています。
その頃、私たちは祖父母の思い出の品を一緒に見て楽しんでいました。その中には、真ん中に穴の開いた日本の小銭も少しありました。
アンジェイ: 私はずっとその小銭を持っていたのですが、不幸にもアパートに泥棒が入り、すべて盗まれてしまいました。
ズビグニエフ: 数十枚の小銭だったので大量のコレクションではありませんでしたが、
様々な種類の小銭があって、真ん中に穴も空いていて、私たちにとっては物珍しかったことを覚えています。
そうですね。今日でも、日本では穴の空いた小銭を使っていますから、日本に行く機会があればコレクションを追加することもできるかもしれませんね。
ズビグニエフ: 日本には2度、学会で短期間訪れたことがあります。
初めての訪問では、筑波に行きました。
つくばは科学の街で、シンクロトロンという名前の装置があるんです。
ですので、私たち結晶学者にとっても非常に魅力的な機会でした。(シンクロトロンとは、非常に強いX線を発生させることができる粒子加速器のことです。結晶学者が回折実験に使用します)。
その数年後に、2度目の訪問をしました。
大阪で結晶学の大きな学会が開催されたのです。日本を訪れることがとても楽しかったことを、とてもよく覚えています。
アンジェイさんとシルビアさんも、日本にいらしたことはありますか?
アンジェイ: 私はないです。
シルビア: 私と日本との接点は、息子が高校生の4年間、日本語の授業を受けていたことくらいです。
私が働いていた高校では、日本人ボランティア(日本政府が日本語教師として派遣)を採用していました。
私がこの高校で働いていたため、レッスン料を払い、Ryo Onozaki先生とMiho Kuniyasu先生、Tamie Kikuchi先生のもとで息子が日本語を学ぶことになりました。
また、寿司の作り方や日本文化、絵の描き方なども学んでいました。
今でもとても懐かしく思い出します。その後、大学に進学してからも、息子は日本でインターンシップをすることを夢見ていました。
ですが、実現はしませんでした。残念ながら、学術の世界は、夢だけでなく独自のルールに支配されているからです。
ズビグニエフ: だいぶ前に、ベルリンで一緒に働いていた日本人の同僚とのエピソードをひとつ思い出しました。
日本人はアルコールを消化する特定の酵素ADHを持っていない人が多いため、アルコールを摂りすぎてはいけないと言っていたのです。
その通りですね。(日本人のインタビュアーである私も)ほとんどお酒は飲めないですので。
ズビグニエフ: その日本人の同僚は、自分は北の国から来たからお酒には弱くないと言っていました。
北海道出身の日本人は、より強いお酒を消費できるんだということでした。
とても興味深いですね!少し話題は変わりますが、ポーランドを離れていた頃の家族の思い出の品などはありますか?
アンジェイ: 私たちの祖父母とその子どもたちは、1918年にロシア革命がシベリアに及んだとき、イルクーツク地域に住んでいました。
祖父はシベリア鉄道の建設に携わる技術者でしたが、イルクーツク在住でした。
その時の写真をアルバムにしています。
ボリシェヴィキとの関係で少しイルクーツクが不穏な空気に包まれると、彼らは満州のハルビンに移りました。
少なくとも2年間はこの地に住んでいました。
シベリアからポーランド系の人々が逃れてきたこともあり、そこには大きなポーランド人コミュニティーがあったのです。
以前、父がグダンスクの中国領事館で披露した漢字2文字が書かれた金のリングは、
ここの思い出の品です。
この文字は、紀元前6世紀の中国の哲学者の名前、堯を意味するようで、
堯のように行動する、あるいは堯を模倣する、と解釈できるでしょう。
デュカットゴールドのリングなので、とても傷つきやすく、磨り減りやすいのです。
ズビグニエフ: 子どもである私たちにとって、日本の小銭を一緒に見るのもとても楽しい時間でした。
アンジェイ: また、日本の物か中国の物か分かりませんが、木彫りの婦人靴や食事用の箸が残っています。
そのほかには、イルクーツクでのフォトアルバムと、曾祖母のパスポートの写真、父方の曽祖父母の写真しか残っていません。母方の祖父は、皇帝軍の将校でした。
母はウクライナのポルタヴァで生まれましたが、第一次世界大戦後にポーランドに移りました。
シルビア: 思い出の品で言うと、幼いころに読んだある本を覚えています。
折り紙の折り図を集めた大きなアルバムに、
色とりどりの四角い紙がたくさん付いていて、それを使って個々の作品を折ることができるようになっていたのです。
折り紙はまさに芸術で、あまりうまく折ることができず、大変だったのを覚えています。
また、中国画のアルバムも覚えています。布製で、とても薄い紙でシートが綴じられていたと思います。
パステルカラーの美しい花柄が多かったですね。きれいでしたよ。
アンジェイ: 3重、4重に重ねられた薄い紙に描かれた二巻の絵画でした。ポーランドで購入した品で、私が現在保管しています。
折り紙そのもの、もしくはそのお写真は、保管していらっしゃいますか?
シルビア: いや、時間が経ってどこかに紛れ込んでしまったんです。
父が孫に譲ったのかもしれませんね。
思い出の品として、真鍮(写真左)のボウルなら持っています。
アンジェイ: 思い出の品のうち現存しているものはすべて、中国かシベリア製だと思います。
私たち家族は、稲妻のようなスピードで日本を通過してきたように思います。
どうしてご家族がシベリアにいたのかは、ご存じですか?
アンジェイ: 父方の祖父母は、昔、ピョートル1世が入植したヴォルガ・ドイツ人の子孫でした。
ズビグニエフ: 私たちのドイツ風な苗字からも推測できるようにね。
アンジェイ: 私たちは、18世紀から19世紀にかけての祖先、ヨハン・テオドラ・ダウテル(Johann Theodor Dauter)と、
その子どもたち、そして私たちの曽祖父、つまり祖父ミエチスワフの父であり、私たちの父ブロニスワフの祖父であるレオン・ダウテル(Leon Dauter)に関する情報を持っています。
ズビグニエフ: 一方、このレオンは、青年時代に1863年の分割統治下、ワルシャワでロシア式の高等学校で学びました。
そして、ポーランド人の仲間とともに一月蜂起に参加し、その結果シベリアに送られました。
アンジェイ: 罪人としてでなく、国外追放者として。
ズビグニエフ: レオンはシベリアで暮らし、そこでポーランド女性と結婚しました。
息子の名前はミエチスワフというポーランド名だったことからもうかがえるように、妻の影響で一家はポーランド化したのでしょう。
ミエチスワフはもはや国外追放者でも罪人でもなく自由人となり、トムスク、そしてサンクトペテルブルクで学びました。
彼は高等工業学校(工科大学に相当)を卒業し、イルクーツクに戻り、シベリア鉄道の建設に従事し、ハルビンに移るまでそこに住んでいました。
ですので、私の父は1912年にはヴェルフヌディンスクというところで生まれました。
この場所は1934年からはウランウデと呼ばれ、現在ではブリヤート共和国の首都となっています。
当時、シベリア鉄道を建設していたイルクーツクのバイカル湖の対岸にある町でした。
アンジェイ: シベリア鉄道がウラジオストックに到達したとき、私たちの叔父ヴィトルド(Witold)が1919年に誕生したね
ズビグニエフ: 私たちの祖母、つまり祖父ミエチスワフの妻の祖父はロマン・ロギンスキ(Roman Rogiński)といい、
彼は歴史上の人物で蜂起参加者でした。
一月蜂起に参加した青年であることから歴史に名を残していますが、彼の軍歴はあまり良いとは言えません。
クンツェヴィチョヴァ(Kuncewiczowa)氏の著書『森林警備員(原題:Leśnik)』にも、彼についての言及があります。”Leśnik “には、「ロマン・ロギンスキの部隊がビャーワ・ポドゥラスカ(Biała Podlaska)を占領した」という短い記述がありました。
また、有名な歴史家であるステファン・キエニエヴィッチ(Stefana Kieniewicz)の小冊子では、まさにロマン・ロギンスキの部隊がテーマとなっています。
ロシア軍との小競り合いでは、ロシアの小部隊を捕虜にしました。
なぜ突然、ロシア人将校を連れ去り殺害したのか、つまり捕虜を射殺したのかは不明です。
これは重大な犯罪であり、重大な罪です。
その後、ロマンの部隊は解体され、彼は捕虜となりましたが、ツァーリ当局は彼を裁判にかけ、この件で死刑を宣告しました。
ですが、彼を捕虜にしたノスチッツ将軍がロギンスキのために介入し、死刑ではなく、シベリア流刑に彼を処したのでした。
こうして、彼はシベリアに渡ることになりました。
ロマンはそこで家庭を築き、その娘ハリナ・ヨアンナは私たちの祖母の母親となりました。
このような、ちょっと複雑な運命の巡り合わせがありました。
それにしても、どうして皆さんはご自身の祖先について、ここまで良くご存じなのですか?
良く家族史についてお話なさっているのですか?
それとも何か、家族史を本などにまとめているのですか?
アンジェイ: 先ほどもお話したように、シベリアからの帰還についてほとんど話さなかったのが逆に不思議なぐらいよく語り継がれています。
特にイルクーツクからハルビンに移り、船で日本やポーランドを旅したあの頃について…..。
お父さんにとって、あまりいい思い出ではなかったからかもしれませんね。
アンジェイ: そうかもしれないね。私には良く理解できないのだけれど。
実は、皆さんは他のポーランド人の家族やシベリア孤児一家と比べて、家族の歴史について詳しく、正確な日付までご存じですよ。
ズビグニエフ: でも、これらは断片的な記憶であり、笑い話や一瞬の出来事を切り取ったものでしかないんです。
それでも、祖父や祖母のことは、もう少しお話することができます。
特に、シベリアで育った祖母は、よくロシア語で歌を歌ってくれました。
『Tili Tili Bom』といったロシアの歌を歌ってくれたのを今でも覚えています。
アンジェイ: そもそも、祖父母は市民権を有するロシア人だったのです。
彼らは1923年にポーランド国籍を取得しました。(私はその書類の写しを持っています)
おじい様とおばあ様はどのようにポーランドに帰ったのですか?
お父様は兄弟と一緒に船で日本、ロンドンを通過してポーランドに戻ったと思いますが、そのご両親はどうしたのでしょうか?
アンジェイ: 祖父母も子どもたちと一緒に熱田丸に乗って帰国しましたよ。
その時お祖父様はおいくつでしたか?
アンジェイ: 祖父は1883年生まれですので39歳でした。その子どもであるエレオノラ、ブロニスワフ、ヴィトルドはそれぞれ、11歳、10歳そして3歳でした。
ズビグニエフ: 祖父母(ミエチスワフとステファニア)は、子どもたちの世話人として正式に渡航を許可されたと推測されます。
なぜなら、900人以上の子どもがいたのなら、安全を確保するために、このような世話人もたくさん必要だったはずだからです。
シルビア: 口を挟ませていただいてもいいですか。
兄たちが成人して大学を出てから継父になったので、旅の話はずっと後になってから聞きました。
ミエチスワフおじいさんが、よく子どもたちを護送していたことを思い出しました。護送船団なんて言葉もありましたね。
彼らは、シベリア孤児たちの世話人、あるいは事務人のようなものに過ぎませんでした。
確かにヴィエスワフ・タイス教授の本(訳者註:『Dzieci Syberyjskie 1919-2019』)には、9月6日に熱田丸で出航した一行の主な付添人として、
あなたのおじい様のミエチスワフ氏が帯同したことが書かれていますね。
しかし、福田会のアーカイブ資料にあるメインの付添人役リストには載っていません。
おじい様・おばあ様はポーランドのどの村に辿り着いたか知っていますか?
お二人とその子どもたちのポーランドでの運命はどのようなものだったのでしょうか?
アンジェイ: イギリスからどの港に出航したかは分からないが、おそらくグダニスクだと思います。
グディニア(Gdynia)ではなかったです。
私の知る限り、彼らはまずウッジ(Łódź)に到着し、その後ビャウィストクに定住したようです。
父がビャウィストクの高校に通っていたことは知っています。その後、一家でヴィリニュスに移りました。
祖父はそこで、ボイラー検査事務所を経営していました。
これは、現在で言う技術監修事務所でした。
このボイラー検査事務所は、おそらく最初はビャウィストクで設立され、その後ヴィリニュスに移転し、戦時中も一家はこの地に住んでいました。
私たちの母親は、ワルシャワに住んでいました。
戦争が始まり、ワルシャワが占領下に置かれた後、彼女はヴィリニュスに向かいました。
もちろん、そう簡単には行かなかったのですが。
途中、ロシアの刑務所が2カ所あり、スウツクで刑務所から脱出するというかなりのアクシデントもあったからです。
しかし、ついに彼女はヴィリニュスにたどり着きました。
1941年に両親は結婚し、その1年半後に私が生まれました。
そして1944年、父はスターリノゴルスクの収容所に連行されました。
ズビグニエフ: 連れ去られたわけではなく、医師のアパートのボイラー室に連れて行かれたのです。
アンジェイ: 私が猩紅熱にかかり医者に行ったところ、そこにはボイラーがあったため、
父が逮捕されて収容所に送られたそうです。
ズビグニエフ: ソビエトは、ドイツ軍と同じようなボイラーを総司令部で作っていました。
アンジェイ: 1946年に収容所を出られたのも、ちょっとしたラッキーな偶然でした。
父は出所後、ポーランドのエウクに向かいました。
その前年の1945年に、私たち一家(私の祖父母と母、そして私)は、ヴィリニュスからビャウィストクに送還されました。
そして、1946年にみんなでエウクに引っ越したのです。そして、1946年の暮れ、父が収容所から帰ってきました。
1948年には持ち家に住み始めて、その1年後には別の家に引っ越しました。そして、1948年には…
ズビグニエフ: 私が生まれたわけです。
お二人は、シルヴィアさんがご家族になられた経緯を覚えていらっしゃいますか?
また、お父様のご兄弟にもお子様がいらっしゃいましたか?
それとも、家族の過去の記憶を継承しているのは、この3人だけなのでしょうか?
アンジェイ: 父が母と離婚し、しばらくしてシルヴィアの母親と結婚したため、シルヴィアは父の連れ子としてやってきました。
こうして私たちは家族になったのです。我が家の3人のシベリア孤児のうち、父だけが2人の息子に恵まれました。
一方、姉のエレオノラには子どもがおらず、弟のヴィトルドにも子どもがいませんでした。
ヴィトルドはかなり晩年になって、娘のいる未亡人と結婚しました。
つまり、連れ子もいたわけですが、残念ながらこの女性はもう亡くなっています。
このシベリア孤児たち、つまりブロニスワフの一等親は、私たち2人のみです。
皆さんにはお孫さんもいますか?
ズビグニエフ: アンジェイには息子が一人、孫が2人います。私は、2人の娘がいますが孫はまだいません。
シルヴィア: 私は先ほどもお話した通り、成人した息子がいます。
娘もいましたが、残念ながら3年前に亡くしました。
孫もまだ授かっていません。
お子さんやお孫さんも、家族の歴史やシベリア孤児の過去について興味を持っていますか?
シルヴィア: 私の息子のマチェイは、非常に興味を持っています。
彼にとっての祖父であるブロニスワフを覚えていて、だからこそ、とりわけ私たちのインタビューが録画されていることがとても嬉しく、ありがたいです。(訳者註:後ほどインタビューの映像をご覧になることを、マチェイ氏は楽しみにしていらっしゃるとのことです)
マチェイは祖父をとても慕っており、10代の頃はよく彼のところに遊びに行って、年老いた祖父母の手伝いをしていました。
息子は、私の父をとても尊敬していました。
時々、日常生活や政治の世界で何か悪いことが起こると、息子はこのように言ったものです。
「神よ、祖父が生きていなくてよかった、とても正しくて気高い人だったから。
しばしば物事が間違った方向に進んでしまうのを目の当たりにしたら、本当に心を痛めていただろう。」
マチェイは祖父を心から尊敬していて、たくさんの温かい気持ちを抱いています。
ズビグニエフ: 私の娘らはあまり興味がないようです。
長女のエヴァはシベリアでの写真のコピーを持っているが、それ以外にはあまり繋がりはありません。
そもそも、私の娘は二人ともポーランドで生まれましたが、すぐに故郷を離れ、
数年をイギリスで、10年をドイツで、そして25年以上アメリカで過ごしています。
だから、ポーランドでの過去にはあまり興味を示しませんでした。
アンジェイ: 息子はもちろん、孫も特に興味はもっていないでしょう。
一時期は下の孫も興味を持ったようですが、今はもういないようです。
どちらかというと、孫や息子の関心はむしろ非常に弱い、あるいは現時点では全くないようです。
そうなのですね。今はいろいろな用事があり、家族の歴史について考える時間を捻出するのは少し難しいのかもしれませんね。
ズビグニエフ: 今回の録画を娘にも必ず見せるようにします。
アンジェイ: 私も孫らにぜひ録画を見せようと思います。
ポータルサイトGeni.comで家族の絆を探したことも、実はありました。
このサイトは、MyHeritageと似たようなサービスで、カバーエリアは少し狭いですが、おそらくドイツ系のロシア人女性が運営しています。
自分で家族の情報を入力し、アーカイブや情報をいくつかダウンロードすることができましたが、それほど多くはありませんでした。
シルヴィア: 付け加えると、今でも息子の日常の中に日本は存在し続けています。
反抗期にはアニメや漫画の大ファンでしたし、現在もそうだからです。
自分で絵を描いてみたり、もうすぐ来る私の誕生日には、お寿司を食べに連れて行ってくれるそうです。
シベリア孤児の歴史は、今日のような形で皆さんの間で語られることが多いのでしょうか。それとも、何かの集まりでたまに語られる程度ですか?
アンジェイ: どちらかというと、稀に語られていると言わざるを得ません。折に触れて時々です。
逸話といえば逸話なのですが。回顧録や歴史的な論考としてではなく、ストーリーとして語っています。
ズビグニエフ: ほとんど語られていませんが、
福田会という、まさにシベリア孤児たちの歴史に関わった組織が現存していることを、たった今知って、嬉しくなりました。
アンジェイ: インタビュアーのお二人に感謝するとともに、このプロジェクトを軌道に乗せるために重要な役割を果たしたロドヴィッチ元大使に感謝しています。
その通りですね。ロドヴィッチ元大使なしでは、シベリア孤児に関わった福田会さえこのような出来事があったことを知りえなかったでしょう。
彼女がこのプロジェクトを進めるにおいて、一番重要な役割を果たしました。
ズビグニエフ: ご存知のように、数年前、ポーランドではシベリア孤児についての報道がありました。
このことは、数年前、まだマリアン・エイル(Marian Eile)が編集者だったころの雑誌、『Przekrój』のシベリア孤児に関する記事からもうかがえます。
さらに2002年には日本大使館で当時ご健在だったシベリア孤児の方々との会合がありましたね。
つまり、20年前にも、この記憶が継承されていたのです。
シベリア孤児の末裔もしくはこの物語と何らかの関係がある方をご存知ですか?
アンジェイ: 誰も知りません。戦間期のころの知り合いについてなら、話を聞いたことがあります。
ズビエグニエフ: ここで、祖父の従兄弟たちがどのようにしてポーランドに来たのかという疑問が生じます。
彼らにも私たちの祖父と同じような年頃の子どもがいました。彼らもシベリア孤児としてポーランドに戻ることができたのかどうか…。
アンジェイ: 私にはわかりません。家族に聞きましたが、情報を持ち合わせていませんでした。
おそらく、ロシア革命後、ポーランド人と繋がりがあり、ポーランドに戻りたいと考えていた人々が、
このような公式な機会(救済委員会を頼ってのポーランドへの帰国の機会)を得たのでしょう。
ズビエグニエフ: そうですね、それすら簡単なことではありませんでしたが。
とにかく、子どもたちがシベリアからポーランド、わざわざ日本を経由して避難してきたことが、それを物語っていますね。
アンジェイ: 私の知る限り、ロシアを経由した鉄道輸送もあったようですね。
シベリア孤児の物語と非常に関係の深い人物とお知り合いかどうかもお聞かせください。
ワルシャワに定住し、主にシベリア孤児について研究していた日本人ジャーナリストの松本照夫氏と、シベリア孤児に直接インタビューし、密に連絡をとっていたヴィエスワフ・タイス教授のことはご存じですか?
どうしてもっと早く、皆様が彼らと連絡を取り合うに至らなかったのか、不思議に思っています。
アンジェイ: いいえ、存じ上げないです。
朝食後にコーヒーを飲みながら閲覧しているOnetのデイリーニュースの部分で、全く偶然にみなさんの取り組みを発見したのです。
シベリア孤児のリストがあるという情報を、このニュースで見つけました。
そしてリストを確認して、初めて皆さんに連絡したんです。
もちろん、弟や妹にも情報を知らせました。
それ以前は、弟が言うように、何年も前に『Przekrój』でこの記事を読んだということ以外、何の情報も持ち合わせていなかったのです。
なるほど、本当に偶然の出来事だったのですね。
皆様と繋がることができて、大変嬉しく思います。
アンジェイ・ズビエグニエフ: 私たちも光栄です。ありがとうございます。
こちらこそ誠にありがとうございます。
2023年9月に行われる「シベリア孤児ポーランド帰還100周年記念式典に、皆様をぜひご招待させてください。
アンジェイ: 私は喜んで出席させていただきます。遠方の弟が参加できるかは分かりませんが…。
ズビエグニエフ: 私は多分難しいですが、兄に代表してもらいます。
ありがとうございました。ポーランド人と日本人のゲスト約数百人を招いてのセレモニーが企画されています。
皆様にとって、シベリア孤児の他の家族や、この歴史に関わる人々との出会いの場となることでしょう。
会議やパーティーも計画されており、寿司や日本茶もご用意する予定です。
アンジェイ: 祖父がしてくれたお茶の話を思い出しました。最高品質のお茶を作るために、どのように最良の茶葉を収穫するのかといった話だったような。
シベリア子孫の末裔をより効果的に探し出し、この物語を広めるためにどのようなことをするのが良いと思いますか?
アンジェイ: 皆さんたちが現在なさっている情報発信は、すでに大きな賞賛と感謝を受けるに値する価値ある取り組みだと思います。
必ずや、人々に興味をもってもらえるはずです。
ズビエグニエフ: そして、皆さんの取り組みが私たちの接点となったのです!
アンジェイ: このような形で新たな末裔の方々が見つかる可能性があると思います。
ズビエグニエフ: Onetのようなメジャーなメディアなら、できるだけ多くの人に情報が届く可能性があります。
シルビア: 映画やテレビドラマの題材にも値する史実だと私は思います。なぜなら、シベリア孤児のストーリーは純粋な冒険物語だから!
長編映画やミニシリーズにちょうどいい、そんなストーリーです。
当時こんなことがあったなんて、にわかには信じられません。
『シベリアの夢』という映画作品が現存しています。
シベリア孤児へのインタビューも収録されている、素晴らしいドキュメンタリー作品です。心からおすすめします。
最後に、お三方には、たくさんの詳しいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。本当に素敵な時間でした。
アンジェイ・ズビエグニエフ・シルビア:私たちも、お二人と福田会に、一連の活動と今日のインタビューに対して、大変な感謝の意を表したいと思います。
ありがとうございました。