1919年9月16日、ウラジオストクにて、シベリアに取り残されたポーランド人の孤児たちを救うため、ポーランド孤児救済委員会が設立されました。最初の指揮をとったのは、当時教師であったアンナ・ビエルキエヴィチ氏と、医師であった ヨゼフ・ヤクブキエヴィチ氏です。その後、後に植物病理学の教授となったカロル・ザレフスキ氏が加わり、1920年から1922年の間にポーランド孤児救済委員会は計763名のポーランド孤児を救済しました。

375名の孤児がウラジオストクから日本の敦賀へと輸送されました。その後、社会福祉法人福田会の元へ送られました。

1921年4月6日、節子皇后(当時)が日赤本社病院へ行啓なさった際、皇后は奉迎した子どもたちのそばへあゆみより、1人の児童の頭をなでるなどされたといいます。

369名の孤児と27名の大人はシアトル、そしてシカゴへと進みました。 ヨゼフ・ヤクブキエヴィチ氏が旅程の管理をし、ポーランド人ピアニストのヘレナ・パデレフスカ氏と作曲家のイグナツィ・パデレフスキ氏の支援も受けました。

1922年1月、孤児たちはドイツのブレマ港に到着し、ポーランドのポズナンへと汽車で送られました。

1922年8月、379名の子どもたちがロシアから日本へと到着しました。子どもたちは大阪へと送られたのち、2回に分けポーランドへ帰還しました。

第三回救済では117名の子どもたちと17名の大人が救済されました。チタを1923年1月23日に出発した一行は9日後に無事にモスクワに到着しました。

子どもたちは帰国後ポズナンの施設で暮らしていましたが、施設の状態が悪かったことからヴェイへロボに移動することになりました。1923年4月30日に、孤児たちによるZWDSがヴェイへロボにて設立されました。

救済されたシベリア孤児の中からシベリア孤児の組織を作る者が現れました。日本との繋がりを保つために設立されたこの組織は、 イエジ・ストシャウコフスキ氏によって発案され、彼自らが会長となりました。極東青年会は規模を拡大し、最盛期には600名以上の会員が所属し、国内9都市に支部が設けられたといいます。極東青年会は『極東の叫び』という新聞も刊行し、日本文化の普及につとめました。在ポーランド日本国大使館の協力のもと、文化イベントや日本語教室等も開催しました。