父の足跡をたどる旅

Paul Wojdak氏
ポール・ヴォイダク氏

1948年イングランド生まれ。4歳の時カナダに移住。マックマスター大学及びブリティッシュコロンビア大学卒業(地質学)。バンクーバーの企業にて地質専門学者として20年間勤務したのち、政府の地域地質学者として20年間勤務。金、銀、銅、モリブデン、亜鉛鉱床に関する書籍を出版。
2011年に退職後、妻のテレサさんと共に国内・海外旅行を楽しんでいる。2020年現在、シベリア孤児の1人であった父親・Paweł Wojdak氏に関する調査・執筆をすすめている。

吉田:本日はお時間をいただき、ありがとうございます。
2019年のヴェイヘロヴォでの会議以降、お会いできていませんでしたので、今日お話出来ることを楽しみにしておりました。
早速ですが、インタビューを始めさせていただきます。

ポール:はい、よろしくお願いいたします。

吉田:まず初めに確認させていただきたいのですが、お父様が日本に滞在していたという話を、お父様から直接お聞きになったということでよろしいでしょうか。
また、ポールさんとお母様以外に、お父様が日本で過ごしていらっしゃったときのお話を知っている方はいらっしゃいますか。

ポール: はい、父から直接すべての話を聞きました。もう亡くなっている母以外は、当時誰もその話を知りませんでした。

父は6、7歳の時に両親を亡くしています。彼の両親は列車の “事故 “で死んだ聞いています。
私はこの事故がポーランドで起きたことだと思い込んでいましたが、のちに間違いであることが分かりました。
当時子どもであった父は、国や国境のことなど何も知らなかったのです。
また、父はシベリアやロシアについて語ることもありませんでした。
私が幼い頃に祖父母のことを尋ねると、父ほとんど何も話すことができませんでした。
全身がこわばり、遠くを見つめていたのです。私には理解できない心の痛みがあったのでしょう。
今となっては、心的外傷ストレス(PTSD)を抱えていたと解釈できます。辛い記憶を、封印していたのです。

日本を離れた後、父はアメリカの孤児院で、他のシベリア孤児と一緒に過ごしていました。
2021年、私は
フェリシアンシスターズに問い合わせて、父に関する記録をアーカイブスから取り寄せました。
この記録によると、彼はシベリア西部のノボミコライェフスク(現在のノボシビルスク)で生まれたことが判明しました。
彼は3750キロ東の満州ハルビンの孤児院で、一人でいたようです。
生年月日は不明で、1912年か1913年生まれの「7歳くらい」と当時記録されています。
日本側で保管されているシベリア孤児名簿では、下の名前が「ヴワディスワフ」と記載されていますが、
私は、セカンドネームもなく、「パヴェウ」と父の名前を把握しています。
ですので、この
「ヴワディスワフ」という名前の由来は謎のままでした。

1920年当時、ノボシビルスクからハルビンまでの広大な距離の移動手段は、汽車のみでした。
当時のロシアは、内戦で混沌としていました。
ポーランド児童救済委員会の記録から、迫害や飢餓、死から逃れるために東へ東へと逃れたポーランド人難民が大勢いたことが分かっています。
列車は故障し、乗務員は脱走し、共産主義者と赤軍・白軍のロシア人およびその支持者間での戦闘があったため、
列車の旅はおそらく数週間から数ヶ月かかったと思われます。
兵士たちは、難民を列車からシベリアの冬に無理やり引きずり出しました。
父の話では、まず彼の母親が列車の中で亡くなり、その後父親も亡くなったそうです。
子どもにとって、これはどんなに恐ろしい体験だったことでしょう。
また、両親を失った子どもが身分証明書を持ち合わせているはずもありません。
そのことから、おそらく父は、死んだ彼の父親である、「ヴワディスワフ」・ヴォイダックの書類を携帯し、
使ったのだろうと推測できます。

私は、クラクフにある「Your roots in Poland」という系図研究団体に調査協力を依頼しました。
彼らはロシアにも仲間がいて、ノボシビルスクの出生記録や、モスクワの囚人や政治亡命者の国家公文書館を調査してくれました。
しかし、記録は不完全で、多くの巻が欠けていたり部分的にしか保存されていなかったりしました。
ヴワディスワフ・ヴォイダックの記録は、1908年の囚人名簿のみでした。
その記録によると、同氏はワルシャワの北東75キロのヤショルフカ村に生まれ、16歳の時に窃盗で逮捕され刑に服したそうです。
これは政治犯罪ではないので、国外追放になる可能性は低と考えられます。
このヴワディスワフ・ヴォイダックが、私の祖先かどうかは不明です。典型的なポーランドの名前ですので、同姓同名の方もいることでしょう。
一方、ポーランドの刑務所にいる間に政治犯とみなされ、その後ロシアに追放された可能性もあります。
私とヴワディスワフの関係は、かなり不確かで、推測するしかありません。
私は長い間、父の痕跡を探すのに必死でした。
祖先が判明した可能性はあります
が、自分の願望からそう思い込んでいるだけで、実際は他人なのかもしれません。

吉田:お父様はとてもつらい時間を過ごされたのですね。
私が以前インタビューしたルーカスさんも、家族について同じようなことを語ってくださいました。

ポールさんは昨年(2019年)、日本にいらっしゃったそうですね。
訪れる前、日本にどのようなイメージを抱いていましたか。また、そのイメージは来日をきっかけに変化したのでしょうか。

ポール:父はシベリア孤児として日本に渡りましたが、それについて語ることはほとんどありませんでした。
ですので、雑誌『極東の叫び』に掲載されていた写真を通して、シベリア孤児たちが日本に温かく迎えられ、
面倒を見てもらっていたことを知りました。
父の背中には、福田会滞在時に通った日本赤十字病院で治療を受けた際に出来た小さな傷がありました。
このような繋がりを知っていたので、妻と一緒に日本を訪れることをとても楽しみにしていました。

2019年11月に日本を訪れたのですが、空港からホテルまで地下鉄で向かう際、道に迷ってしまいました。
私はとても疲れていて、階段をスーツケースを持って登ることに苦戦していたのです。
すると、親切な若い女性が私が困っていることに気付き、荷物を運んでくれました。
途端に私たちは孤独を感じなくなり、日本に歓迎されたように感じました。

翌日、私と妻は福田会を訪問しました。福田会の土屋さんと我妻さんがホテルまで車で迎えに来てくださいました。
福田会では温かく歓迎していただき、シベリア孤児の写真もたくさんいただきました。
どれが父だかその場でわかったらよかったのですが、若い頃の写真を見たことがなかったので分かりませんでした。
その後、福田会についてのプレゼンテーションを聞き、昼食を食べるためレストランに案内していただきました。
中華、イタリアン、和食のどれがいいかと聞かれ、私は迷わず「もちろん和食をお願いします!」と答えました。
この日は、私の人生の中で最も特別な日の1つだったと言えます。

吉田:日本への旅行が、ポールさんにとって思い出に残るものだというお言葉を聞けて、とても嬉しく思います。
福田会を知ったきっかけについてお聞かせいただけますか。

ポール:2001年、インターネットで調査をしていたところ、ワルシャワ在住の日本人ジャーナリスト、松本照男さんの存在を知りました。
松本さんからは多くのことを学びました。
「極東の叫び」のコピーを送っていただき、シベリア孤児が福田会に滞在していた子どもの名簿を目にしました。
ヴワディスワフ・ヴォイダックという名前がそこにはあり、資料によると、アメリカのミルウォーキーに渡ったと記載されていました。
ミルウォーキーやシカゴに行って、初めて機械を見たというのは、まさに父から聞いたエピソードです。
自動車、洗濯機などを目にしたのだと思います。その後ポーランドで、なぜこの国には機械がないのか不思議に思ったそうです。
先ほどお話した通り、ヴワディスワフというのは父の実際のファーストネームとは異なるのですが、
この人物が私の父であることには確信を持っています。

しかし当時の私は、福田会が現存しているとは思っていなかったので、福田会について調べようとはしていませんでした。

2019年、ポーランドへ旅行した際、私は『人道の港 敦賀ムゼウム』の西川明徳館長に出会いました。
西川さんは「福田会は今も存在しているよ」と言って、連絡先を教えてくださいました。
さっそく福田会に連絡して、是非見学したいとお願いしたのです。

吉田:西川さんのおかげで福田会への訪問が実現したのですね!
福田会と敦賀市を訪問なさったとのことですが、他の場所を訪れる機会もありましたか?

ポール:敦賀の周辺でしばらく時間を過ごしたほか、2か所の旅館に宿泊し三方湖、余呉湖、そして琵琶湖を訪れました。
さらに、2か所のお城もめぐり、充実した旅となりました。

吉田:お父様からポールさんに伝わっている、思い出や歌などはありますか?お父様は日本の国歌を覚えていたそうですね。

ポール:はい、これはとても驚いた話です。私が10歳か11歳くらいのときの出来事です。
当時の私は、父がどうして日本にいたのか、それは本当の話なのかと不思議に思っていました。
ある日の午後、家のガス炉を修理するために修理工が来ました。その修理工は日本人でした。
父は修理の様子をそばでずっと見ていました。私も近くにいましたが、何を話しているかまでは聞こえませんでした。

修理が終わり、修理工が帰る準備をしているとき、突然父が「気をつけ」の姿勢をとり、日本語で歌い始めたのです。驚きました!

あとで父が、これは日本の国歌だと教えてくれました。
そして、日本語で1から10まで数えてみせました。
母が仕事から帰ってくると、父は誇らしげに「日本人の修理工が、私の歌は完璧だったと言った」と報告していました。

この日は私にとって、とても重要な日となりました。父が本当に日本にいたことが確信できたからです。

今となっては、この時訪れてきた日本人男性の人柄が父の心の中の記憶を呼び起こしたのだと思います。
それまで、父は記憶のありかを見失っていたのでしょう。

吉田:子供時代の記憶というのは、すごいものですね。

ポール:はい、日本人修理工のおかげだと思います。父はその記憶が自分の中にあることすら忘れてしまっていたと思いますが、
修理工のおかげで記憶がよみがえったのでしょう。

吉田:記憶を呼び戻すきっかけになったのですね。その日本人男性がポールさんのお宅に来たのはとても幸運なことでしたね。

ところで、お父さんの世代でヨーロッパからカナダに引っ越してきたとのことですが、どうしてカナダだったのでしょうか。

ポール:カナダに来るのが母の夢だったからです。母は父を説得して、カナダにくる夢を実現しました。

父と母は1947年にイギリスで出会いました。父はポーランド軍とともにイタリアから、母はオランダからやってきていました。
父が自分の誕生日を知らないことを知った母は、7月27日を誕生日にしようと言い、毎年その日を祝ったのです。

日本やアメリカを経由してポーランドに戻った父は、ポーランドではあまりいい暮らしをしていませんでした。
シベリア時代と同様に孤児院に入ることになり、がっかりしていました。
そこから農場に預けられたのですが、家族の一員になるためではなく、働くために預けられたのです。
鍛冶屋仕事を学んだが、1939年、再び戦争が勃発しました。彼が住んでいたポズナン地域は、ドイツが自国の領土とみなして併合した地域でした。
ですので、この地の住民はポーランド人ではなく、ドイツ人として扱われていました。
1944年初め、父はドイツ軍に徴兵され、イタリアに送られました。イタリアでは、ドイツ軍に強制連行された他の多くのポーランド人と同じように、ポーランド軍に亡命しました。
終戦後、彼は10万人以上のポーランド軍と共にイギリスにたどり着きました。
ポーランドはロシアに支配されていたので、彼らはポーランドに戻ることを望みませんでした。
そこで、イギリスにとどまり、イギリス中の収容所に分散していったのです。
父はイギリスに住んでも良いと考えていたのですが、母はヨーロッパの戦争から遠く離れたカナダに行きたがっていました。
そして、1952年にカナダに移住したのです。父はカナダでようやく自分の家を持ち、幸せな生活を送ることができました。

カナダでの私たちの家は、粘土質の痩せた土地にありました。
父は毎年、土壌改良に励み、ダリアやバラなど、あらゆる種類の花を育てていました。
父は自宅が面した通りで一番美しい庭を持っていることで有名でした。
他のシベリア孤児らのストーリーを読むと、花やガーデニングが好きな人が多いことに気が付きました。
彼らが日本で初めて経験した自然の美しさやもてなしの心を、ずっと受け継いでいるからではないかと思います。  

吉田:移住は大きな決断だったと思いますが、良い結果となってよかったですね。
もう一つ質問をさせてください。難しい質問かもしれませんが、日本、ポーランド、カナダの3カ国を比較して、何か大きな違いはありますか?

ポール:日本とカナダとポーランドは、全く違うけれど、どれも美しい国です。
私が一番よく知っているのはカナダです。オンタリオとブリティッシュコロンビアに、すなわち都会と田舎両方に住んだことがあります。
地質学者として、森や山、北極を旅して仕事をしてきました。カナダは広大で人が少ない”未開の地”です。

ポーランドには2度、日本には1度だけ行ったことがあります。ポーランドは農地が多く、また多くの町があります。
森にはプランテーションがあり、同じような樹齢の木々が等間隔に並んでいます。

日本にも町や農地はたくさんありますが、丘や山には大きな自然林もありますね。
日本の道路や鉄道は、森を残したまま、山の下をトンネルがくぐっています。トンネルがたくさんあって驚きました!
カナダはトンネルが少なく、道路が山をよじ登るようにしてつくられているので、とても混乱します。

日本の食事は特別です。料理そのものも特別ですが、それ以上に、調理や配膳にも気配りがなされていると感じました。
旅館に何泊かしましたが、西洋とは違う伝統的な習慣を学び、どこに行っても親切にしていただきました。
私たちが目的地を見つけるのに苦労したとき、通りかかった人が目的地のドアまで案内してくれました。
余呉湖の旅館に泊まった際は、英語を話せない女将さんに、行きたいレストランまでの道を伝えることができませんでした。
すると女将さんは自分の車に乗り込み、身振り手振りで「この車についておいで」と言い、レストランまで運転してくれました。
私と父にとって最も大切な単語 「ありがとう」 の意味を学びました。

吉田:日本人の優しさや礼儀正しさについてお話しいただき、とても嬉しいです。ポールさんが送ってくださったプレゼンテーションの中で、お父様の「謎」について言及していらっしゃいましたよね。それに関して何か進展はありましたか?新しい手がかりや事実が見つかりましたか?

ポール:福田会や敦賀を訪れてから、アメリカでシベリア孤児が滞在していた孤児院を運営していた、フェリシアン・シスターズから父の記録を入手しました。
私はポーランド語もロシア語もできないので、Your roots in Poland」という系図研究団体を使ってロシアの公文書を探しました。
ロシアの支配に反対して追放され、二度と戻ることが許されなかったポーランド人や、シベリアに渡って橋や都市、鉄道を建設した人たちがいたことが良くわかりました。
1918年にロシア政府が崩壊すると、彼らは皆、犠牲者、難民となったのです。
多くの情報が失われていますが、私は発見できる限りの事実を学んだと満足しています。

吉田:少し話がそれてしまいますが、シベリアからは日本やアメリカを経由してポーランドへ帰る人が多かったですよね。特に子どもにとっては、長距離の旅はかなり大変だったと思います。

ポール:はい、特に3、4歳~13歳、14歳までの年齢層にとっては大変な旅だったと思います。父は当時7歳でした。

吉田:そうですよね。

昨年ポールさんは、敦賀とヴェイヘロヴォでの会議に参加されましたが、シベリア孤児の子孫として、日本とポーランドの文化交流等に参加してみることについては、どのようにお考えですか?

ポール: 私にとっても、父の思い出にとっても、そのようなイベントに参加することができればとても光栄に思います。
父にとっても大きな意味があると思います。2020年9月にワルシャワで開催予定だった100周年記念式典に妻と共に出席する予定でしたが、
新型コロナウイルスの影響で延期となりました。来年はぜひ参加したいと思っています。

吉田:はい、残念ながら2020年は式典を行うことが出来ませんでしたが、2021年9月に延期となりましたので、ワルシャワでお待ちしています。
(註:2023年9月開催に延期されています)
他の子孫の方々とは、連絡をとっていらっしゃいますか。

ポール:2019年、ヴェイへロヴォにてアンナ・ドマラツカ氏とウカシュ・ヤンコフスキ氏にお会いしました。
Facebookを通してたまに連絡を取り合っています。

吉田:ルーカス氏へのインタビューのなかで、『極東の叫び』の発行を再開してはどうかという話が持ち上がりましたが、いかがでしょうか?

ポール:とてもいいアイディアですね。コストを抑えるために、オンラインで出版するといいでしょう。
内容としては、歴史的なものに加え、福田会や一般社団法人日本ポーランド青少年協会の活動を取り上げてみてもいいでしょう。
私は現在、父の人生に関して執筆しているので、喜んで掲載させていただきます。

吉田:それは素晴らしい計画ですね!

送っていただいたプレゼンテーションの中で、お父様が”おじいさん”になったと書いてありましたが、ポールさんにお子様がいらっしゃるいうことで間違いないでしょうか。
そうであれば、お子様たちはこの歴史についてご存じで、興味をもっていらっしゃいますか?

ポール:父は自分の過去について、孫たちに話すことはありませんでした。しかし私は、よく子どもたちに父のことを話していました。
父がもう少し長生きしていれば、子どもたちも父のことをもっとよく知ることが出来たでしょう。
子どもたち全員に話をしましたが、なかでも長女が一番興味を持っていました。

吉田:お子様たちが興味を持ってくださっているのはとても嬉しいことです。時間が経つにつれ、この歴史を知る人が少なくなってきているので、どうすれば若い世代の注目を集めることができるのかといつも悩んでいます。

ポール:そうですね、どのように歴史を継承するかというのは難しい課題です。
最も興味を持っていた長女は、今イギリスに住んでいます。娘にワルシャワでの式典に参加したいかどうか尋ねたところ、忙しいとのことでした。
ですが延期となったので、また彼女に聞いてみます。

吉田:福田会は、より多くの人々にこの歴史を知ってもらい、両国をより親密に結び付けるきっかけとなるような方法を模索しています。より多くの人に知ってもらうことは、大切だと考えますか?

ポール:歴史から学べる良い教訓は多くあるので、より多くの人に歴史を知ってもらうことは大切だと思います。
文化交流や学生会議なども一つの方法です。ショパンの音楽を使うのもいいですね。例えば、日本のオーケストラがアメリカなどの海外でコンサートを行うとき、聴衆に「ショパンの音楽は日本でとても人気があります。なぜかわかりますか?100年以上前にポーランドの孤児が来日し、ショパンの音楽を伝えたからです。両国の間には強い絆があります。詳しくはロビーにあるパンフレットをご覧ください。」と話をすることもできるでしょう。

吉田:最後の質問ですが、ポーランド人や日本人以外の人の目を引くアイディアやアドバイスをいただけますか? 最近、アメリカに住む孤児の家族数人からメッセージをいただいたのですが。

ポール:アメリカとカナダにはポーランド系移民が多くいますが、歴史に関心のある人を見つけるのは容易ではないと思います。

アンナ・ドマラツカ氏がヴェイヘロヴォでプレゼンテーションを行ったとき、私は彼女が持っている情報量の多さに驚きました。
それに比べて私は何も持っていませんでした。ポーランドとつながりのある人なら、情報を見つけることは難しくないかもしれませんが、
私のようにポーランドに家族が一人もいないような人にとって、情報収集は難しいです。
同様に、日本とつながりを持とうとすることも、普通はとても難しいはずです。

吉田:お父様がアメリカの孤児院に滞在していらっしゃったときの記録が見つかったとお聞きましたが、そのような記録からさらの多くの情報が得られると思いますか?

ポール:父が滞在していた孤児院を訪問した際、父の記録が残っているファイル番号を手に入れました。
残念なことに、私が話をしたいと思っていた方は体調不良で、直接話をすることはかないませんでした。
ですのでもう一度行く必要があるかもしれません。

孤児院には貴重な記録がたくさん残っていました。
父だけでなく、他12人のシベリア孤児もセントジョゼフ孤児院に滞在していたそうで、彼らの記録が残っているファイル番号も持っています。

吉田:現在は新型コロナウイルスの影響もあり、訪問は厳しいかと思いますが、状況が良くなれば再度訪問できるといいですね。私たちもポールさんと共に、さらに多くの情報を集めていきたいと思っています。

本日はお時間をいただき、どうもありがとうございました。

(インタビュー日:2020年12月17日)

福田会ではシベリア孤児の末裔の方々を探しています。
情報提供はこちらまで→info@siberianchildren.pl