首相府副大臣、ヤン・ジェジチャック氏によるご挨拶
親愛なる在ポーランド日本大使、親愛なる社会福祉法人福田会理事長、親愛なる国会議員の皆様、親愛なるポーランド共和国大統領顧問、親愛なるシベリア孤児子孫のご家族の皆様、そして親愛なるポーランドと日本のご友人の皆様!
本日は、ポーランド共和国政府における在外ポーランド人コミュニティーと在外ポーランド人全権担当として、
目覚しい友情と協力の歴史の100周年を記念する会合に参加させていただきましたことに、感謝申し上げます。
ポーランド分割以来何百年もの間、ポーランド人はロシアによって、後にはソ連によって、シベリアに移送されました。
これは、ポーランド民族への最も過酷な拷問と悲劇的な歴史の象徴であります。また、同胞の不屈の精神を象徴するものでもあります。
1918年、分割統治から123年を経て、ポーランドが独立を取り戻しました。
そして、シベリアに移送されたポーランド人の子孫であるウラジオストクのポーランド人活動家らが「ポーランド児童救済委員会」を設立しました。
その代表は、勇敢なポーランド人、アンナ・ビエルキエヴィチでした。アンナ氏はシベリア流刑囚の娘で、教師をしていました。
委員会設立の目的は、ポーランド人服役者の孤児や子ども、その子孫の、独立を果たした祖国への帰国を実現することでした。
初めのころ、避難してきた子どもたちは、アメリカ赤十字社の協力を得て、アメリカ人が所有するバラックに収容されました。
しかし、間もなく、ウラジオストクにあったポーランド児童救済委員会の支部が解散してしまいました。
現地はひどい内戦状態であり、飢饉と疫病が蔓延していたのです。
アンナ・ビエルキエヴィチ氏は、ポーランドの独立を世界で5番目に認めた国(1919年当時)である日本に助けを求めることを、決意しました。
東京に行き、子どもたちの日本への移送と一時収容を請願しました。
日本の防衛省や外務省では、丁寧に話を聞いてもらい、親身に対応してもらったそうです。
彼女は、あらゆる関連機関からのできる限りの援助を約束する文書を、日本側から受け取りました。
そして、日本赤十字社との協力により、1920年から1922年にかけて765人の子どもたちが大日本帝国海軍の船で日本に移送されました。
その後、夢とあこがれの地であるポーランドへの帰国を果たしました。
ポーランドではヴェイヘロヴォという街で生活を送っており、この街には「シベリア孤児通り」が現存しています。
日本では、東京の福田会などで子どもたちが生活を送りました。
本日の会合では、100年前に弱い立場のシベリア孤児に門戸を開いた素晴らしい施設の理事長である、太田孝昭氏をお迎えしています。
太田孝昭理事長並びに在ポーランド日本大使!この素晴らしい連帯と友好を示す行為に対するポーランド共和国の感謝を、改めて申し上げます。
この会合に参加できましたことを、光栄に存じます。
ポーランド共和国の外務副大臣であった頃に、東京にある福田会本部を訪れ、直接お礼を申し上げることができたのも、私にとって光栄なことでした。
ですが、この稀有な物語は、ここで完結するわけではありません。
福田会では現在、ポーランドにいるウクライナ避難民の支援に携わるなど、国際的な連帯をも図っています。ロシアによるウクライナへの残虐な侵略から逃れてきた人々に対する支援です。
日本、日本の人々、そして福田会による、100年以上に渡って続く友情と連帯に、感謝申し上げます。
感謝の印として、本日、福田会に特別賞ーポーランド共和国首相がポーランド国家の独立回復を記念して制作した「独立回復100周年記念メダル」を贈呈したく存じます。ご来場の皆様は、ご起立ください。
700人の子どもたちのポーランド帰国の実現への貢献により、福田会は自由なポーランドの再生に素晴らしい形で参加しました。
理事長、記念メダルをどうかお受け取りください。
皆様、閣僚評議会議長のマテウシュ・モラヴィエツキは、
「ポーランド独立回復100周年記念メダル」の、社会福祉法人福田会への授与を宣言します。