インタビュー実施日:2022年3月21日 社会福祉法人福田会にて
福田会斜面にて。右から二番目が兵藤元大使ご夫人の薫様。
1936年生まれ。1961年東京大学法学部卒業と同時に外務省入省、ソ連専門家として英国・ソ連でロシア語等を3年間研修、その後モスクワに2回勤務したほか、ロンドン、マニラ、ワシントン等で勤務。1990年から1993年まで欧亜局長の後、1997年4月まで4年間ポーランド大使を務める。退官後は、東京経済大学教授や名古屋市立大学特任教授などを務めた。著書に『善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋社、1998年)
どのようなきっかけで、シベリア孤児の歴史を大使ご夫妻がお知りになったのですか?
夫が赴任したのは、1993年のことでした。着任して間もない頃、大使公邸の本棚に『ワルシャワ蜂起』(梅本浩志、松本照男著)という古い本が置いてあるのを目にしました。日本から送った荷物もまだ届いておらず時間がありましたので、何気なく私はその本を手に取って読んでみたのです。その中に、シベリア孤児の物語に関する記述を発見しました。日本とポーランドの絆がこれほど昔からあったことに驚き、すぐに主人にこのことを話しました。すると、主人も「こんな話は知らなかった!」と言い、早速、著者であり、ポーランドでジャーナリストをなさっていた松本照男氏に連絡を取らせていただきました。そこから、松本さんにいろいろ教えていただき、シベリア孤児の歴史について詳しく知るようになりました。
大使公邸でシベリア孤児との交流会を開催なさっていたと伺っています。何か印象に残る出来事はありましたか?
1995年から毎年、松本さんのお手を煩わせ、当時の大使公邸で交流会を開催しました。詳しくは、主人の著書(『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』)に書いてありますが、第1回目には、合計8名のシベリア孤児の方々にお集まりいただきました。
大使館の敷地に入った瞬間に、ぽろぽろと涙を流される方もいらっしゃいました。「やっと日本の土を踏むことができた。」と感激なさっていたのです。
この会合に、日本から持ち帰ったお土産を持ってきてくださる方もいらっしゃいました。ボロボロになった扇子や木箱、日本の絵葉書、ハンカチなど…どのようにしてあの激動の戦時下に、これらの物を大切に持ち続けてくださったのだろう?そう思うと胸が熱くなりました。70年以上経った今でも、孤児だった自分達を救ってくれた日本に対する恩を決して忘れないポーランド人の魂の気高さを感じ頭が下がりました。
1995年に行われた大使公邸でのシベリア孤児交流会での集合写真(人道の港敦賀ムゼウム提供)
兵藤大使が在任中の1996年には、阪神淡路大震災で被災した子どもたちがポーランドに招待されましたね。その時の出来事で、何か印象に残っていることはありますか?
「心に傷を負った日本の子どもたちを励まし、楽しい思い出をプレゼントしたい」と考えた元シベリア孤児の方々が、たくさんのプレゼントを持って集まってくださりました。
中には、この会合の前日に弟さんを亡くしながら、「どうしてもこの場に出席したかったから来たんだ。」とおっしゃる方がいて感激しました。日本から来た子どもたちも手厚いもてなしを受け、とても楽しそうに過ごしていました。震災孤児を招待するこのプログラムを企画・実行するために東奔西走し、ご尽力くださったフィリペック博士には、いくら感謝してもし切れない気持ちでした。そして、70数年前の日本の善意をポーランドの方たちがしっかりと受け止め、大切にしてくださっている…。「真の善意、温かい心に国境はない」としみじみ思ったのでした。
ご夫人はもともとポーランドにいい印象をお持ちだったとお伺いしております。その理由をお伺いできますか?
子供の頃からショパンが大好きだったのです。勉強はあまり好きではありませんでしたが、ショパンに関する書籍だけは、辞書を引きながら一生懸命読んでいました。読めば読むほどポーランドの歴史、ショパンの生い立ち、生涯、音楽など益々興味が湧き、限りない想像を巡らせて楽しんでおりました。そのようなことでしたので主人のポーランド赴任が決まった時は、とても嬉しく、夢ではないかと疑ったほどです。
ポーランドに着任後しばらくして、ショパンの生家であるŻelazowa Wolaに行きましたが、そこで見た景色は、私が空想の中で描いていたものと不思議なほど似通っていて、ただただ驚きました(誰にも信じてもらえないでしょうけれど…。)Żelazowa Wolaには、公務を含めると4年間に17回行きました。
実際にポーランドに行ってみて、どのような印象を受けましたか?
通常、どこか外国に赴任すると、最初はその土地に慣れるのに苦労をするものですが、ポーランドの場合は全く違いました。
上空からワルシャワの灯を見た時、言いようのない懐かしさを感じ、空港から街へ出ても少しも違和感がなかったのです。以前から慣れ親しんだ土地のような印象を受けました。ポーランド人は一般に控えめで礼儀正しく、日本人と似ているところがありますが、自分の意見をしっかり持っていて、言うべきことをはっきり言い、議論好きでもあります。
女性達は皆大変美しく、でも、とても芯が強い。何百年の過酷な歴史は、正に今のウクライナのような状況の繰り返しだったので、その中で培われた国民性だと思います。
ショパンの音楽も、ただ美しい、悲しい、懐かしいなどという表面的なものではなく、その奥に強く深い怒り、悔しさ、絶望感そして愛国心が秘められているからこそ、今も多くの人の心に響き、感動を与えるのだと思います。
今後のシベリア孤児の歴史を語り継ぐこと、そして日本とポーランドの関係性について、何かお考えのことはありますか?
離れてからずいぶん時が経ちますが、未だにポーランドは私にとって特別な国です。ロシアによるウクライナ侵攻に際しても、ポーランドの方々が献身的にウクライナからの避難民を支援しておられます。同様の厳しい歴史を生き抜いてきた民族だからこそ、他人の痛みを我が事のように理解し、寄り添える真の優しさがあるのだと益々尊敬の念を覚えます。
今後も、シベリア孤児の歴史を語り継ぐためにお役に立てることがあれば協力させていただきたいと思っています。100年前の日本は、これほど世界に誇れる素晴らしい人道支援をした国だった。このことを一人でも多くの若者に伝えなくてはと思います。また日本とポーランドのより一層強い友好親善関係の深まりにも期待しております。