日本人によって救助されたポーランドの子どもたち
~シベリアからの大規模な帰還~

ポーランドの総合メディア、『Onet』に2022年2月5日に掲載された関連記事を、日本語読者の皆様向けに翻訳を掲載しております。
原文はこちらからご覧いただけまます。

1919年から1923年の間に、900人近くのポーランドの子どもたちがシベリアと満州から日本に避難しました。
「当時、日本の人々は外国人にあまり馴染みがありませんでしたが、多くの人がポーランドの子どもたちのケアにあたりました。何人かの美容師たちは子どもたちの髪を切ると申し出、仕立屋は彼らのために服をつくることを申し出ました。」と、
ポーランドの子どもたちを助けた社会福祉法人福田会の関係者である吉田祐美氏は、Onetのインタビューで語りました。

【この記事のポイント】

・十月革命とロシア内戦の結果、シベリアに住んでいたポーランド人の子どもたちは家を失い、貧困に直面しなければならなかった。彼らは、アンナ・ビエルキエヴィチ氏と医師のユゼフ・ヤクブキエヴィチ氏によって救済された。

・子どもたちは、東京都内の児童養護施設である福田会へと送られた。同施設にとって最も大変だったのは、短期間でたくさんの子どもたちに対応できるように、宿泊場所等のインフラを迅速に整えることであった。

・彼らにとっての課題の1つは、言語の壁を克服することであった。日本赤十字社はドイツ語とロシア語を話す家庭教師を雇い、この家庭教師が福田会に滞在し、看護師と一緒に子どもたちの世話にあたった。

・すべての子どもたちは最終的に日本を去り、アメリカを経由してポーランドに戻った者もいる。何人かはポーランドで、日本と日本文化を伝える活動に積極的に取り組んでいた。

20世紀初頭、900人近くのポーランド人の子どもたちが、シベリアと満州で家もなく貧しい生活を送っていました。
彼らは政治犯や第一次世界大戦で生じた難民、そしてロシアで仕事を探していた労働者の子どもでした。

「これらの労働者は主に、シベリア鉄道の建設に携わっていました。」と、
シベリアのポーランド孤児に関する展示会を共同主催している吉田祐美氏は述べています。

「十月革命とロシアでの内戦の結果、子どもたちは家を失い、貧困に直面しなければなりませんでした。アンナ・ビエルキエヴィチ氏と医師のヨゼフ・ヤクブキエヴィチ氏が極東の子どもたちのためのポーランド救済委員会を設立し、ロシアから日本への子どもたちの避難を実現し、子どもたちは救済されました。」

アンナ・ビエルキエヴィチとユゼフ・ヤクブキエヴィチ

アンナ・ビエルキエヴィチ氏は、シベリアにいたポーランドの子どもたちに関する歴史上で、最も重要な人物の1人です。
彼女の父親は、設計者としてシベリア鉄道の建設に携わっていました。

1919年、シベリアで多くのポーランドの子どもたちの状況が悪化したとき、アンナ・ビエルキエヴィチ氏は極東の子どもたちのためのポーランド救済委員会の設立に着手しました。
彼女は教師として働いていたため、ポーランド人の子どもたちの貧困を身をもって実感していました。

委員会が結成されてまもなく、彼女は日本の防衛省に支援を依頼するために、東京を訪れました。
そして最終的に、ウラジオストクに駐在する日本赤十字に行き着きました。

ビエルキエヴィチ氏が委員会を組織するのを手伝ったのは、一月蜂起軍の子孫でウラジオストクで医師として働くヨゼフ・ヤクブキエヴィチ氏でした。
「私たちは、避難所、鉄道車両、兵舎、警備隊やポーランドの避難所から子どもたちを集め、また無秩序の混乱により家庭が崩壊し、自分たちでは助けられる方法がないが子どもを救いたいと思っている家庭の子どもたちの世話をしました。」と同氏はのちに回想しています。

福田会ー松澤フミの悲劇的な物語

アンナ・ビエルキエヴィチ氏による交渉からほどなくして、ポーランドの子どもたちを乗せた船の第一便が、ウラジオストクから福井県の敦賀港に向けて出発しました。
同年に300人以上の子どもが日本へ向かいました。
9歳で来日したハリナ・ノヴィツカ氏は、数年後、「敦賀で、生まれて初めてバナナとオレンジを食べました。」と振り返っています。

一部の子どもたちは健康状態が悪く、入院しなければなりませんでした。 健康状態の良い子どもたちは、東京都内の福田会に送られました。

福田会で、子どもたちは学んだり遊びに出かけたり休息を取ったりしました。
また、彼らの何人かは看護師のケアを受けていました。看護師の松澤フミ氏は、子どもたちからチフスに感染した後、20歳で亡くなりました。
この病気は当時シベリアで猛威を振るっていたため、福田会で治療を受けた子どもたちの間でも蔓延していました。

「彼女の姿は、ポーランド人の心に刻まれています」-福田会が運営するウェブサイトで、彼女に関する記事を読むことができます。
理由は不明ですが、松澤フミの写真は後にポーランドで発見されています。
福田会から、子どもたちと一緒にポーランドへ渡ったのかもしれません。

ボランティアの美容師たち

「福田会にとって最も大変だったのは、短期間でたくさんの子どもたちに対応できるように宿泊施設といった生活インフラを迅速に整えることでした。」

「当時、日本の人々は外国人にあまり馴染みがありませんでしたが、多くの人がポーランドの子どもたちのケアにあたりました。
何人かの美容師たちは子どもたちの髪を切ると申し出、仕立屋は彼らのために服をつくることを申し出ました。」

課題の1つは、言語の壁を克服することでした。

「日本赤十字社はドイツ語とロシア語を話す家庭教師を雇い、この家庭教師が福田会に滞在し、看護師と一緒に子どもたちの世話にあたりました。」
と吉田氏は語ります。

その後のシベリア孤児らの行方は?

「すべての子どもたちは日本を去り、アメリカを経由してポーランドに戻った者もいます。
何人かはポーランドで、日本と日本文化を伝える活動に積極的に取り組んでいました。
さらに、今でも彼らの子孫の何人かはポーランドでこの物語を広めることに積極的に関わっています。」

「日本では、この歴史は長い間知られていませんでした。
福田会は現在、日本でこの歴史に関するいくつかの展示会を開催しています。
シベリアのポーランド孤児に関する映画も、ここ数年でいくつか製作されました。」

吉田氏は、福田会によるポーランドでの展示会を共催しています。
福田会がポーランドで開催する展示会は、シベリアのポーランド孤児の歴史に関するものです。
展示会の目的は、日本とポーランドの友情に対する意識を高めることです。
両国の長い友好の歴史を知る人々によって、日本とポーランドとの関係が強化されることを願っています。」