ひいおばあさんの家族愛を次の世代へ

Urszula Malewska氏
ウルシュラ・マレフスカ氏

シベリア孤児であった、ヴィンセンティ・マルシャウ氏の孫として生まれる。生前の祖父に会うことは叶わなかったが、家族の歴史を息子のバルトシュをはじめとする一家に今日まで語り継いできた。

祖父をシベリア孤児救済委員会に託した曽祖母に深い感謝と尊敬を感じていることが、この歴史を語るモチベーションとなっている。

※写真右がウルシュラ氏、左がご子息のバルトシュ氏

 

まずは、自己紹介をお願いします。

ウルシュラと申します。私はシベリア孤児の一人であったヴィンセンティ・マルシャウの孫です。
ヴィンセンティには、ヴァンダ・リシャルド・ヴィエスワヴァという3人の子供がいました。長女のヴァンダは現在90歳で、3人の息子がおります。(そのうち2名はすでに亡くなっています。)私の父であるリシャルドには3人の娘がおり、ヴィエスワヴァには3人の息子がいます。これらがヴィンセンティの子孫です。

ご家族内のシベリア孤児の方々について、詳しくお聞かせください。

私の祖父であるヴィンセンティ・マルシャウは、先ほども申した通りシベリア孤児の一員でした。今までは、ヴィンセンティにはアンナ、ヘレナ、ベンジャミンという3人の兄弟がいたとされていました。アンナとヘレナには私が子供の時に会ったことがあり、ベンジャミンについては家族間の言い伝えの中で存在を把握していました。しかし、シベリア孤児に関する情報サイトの名簿一覧を拝見したところ、驚くべきことにルドゥヴィック・マルシャウという名前を見つけました。どうして私の家族がこの名簿の存在を知らなかったのかはわかりませんが、ヴィンセンティ、ヘレナ、アンナ、ルドゥヴィックの4人が、1920年~1921年に同じ船で日本を経由しアメリカへ渡っていたようです。一方でベンジャミンは、1922年に日本、インド洋、そしてロンドンを経由してポーランドのヴェイヘロヴォに戻り、ヘレナと再会したようです。もしかすると、ルドゥヴィックは親族ではなく、偶然苗字が同じだっただけかもしれません。
また、シベリア孤児名簿の中でインノセンティ・マルシャウという表記がなされていたことにも驚かされました。おそらくこれは、私の祖父であるヴィンセンティのことを指していると、私は考えています。

 

お祖父さんから、日本での思い出について直接話を聞く機会はありましたか?

残念ながらヴィンセンティに会うことは叶いませんでした。私の父であるリシャルドが17歳ぐらいの頃に祖父は亡くなったからです。物心ついてから、ヴィンセンティの兄妹であるアンナとヘレナに会う機会はありました。大叔母であるアンナはよく、昔の話をしてくれました。彼女がシュフィドニツァ(ポーランド南西に位置する街。ウルシュラ氏が住んでいたところから600kmほど離れていた)に住んでいたため、頻繫に会うことはできませんでした。時が経ち彼女も年を取り、残念ながら疎遠になってしまいました。ですが、しばしば彼女自身の苦難の子供時代と私の子供時代を比較し、熱く語っていたことを覚えています。決して嬉しそうに話しているわけではなさそうでしたので、やはり彼女にとって辛い記憶であり思い出したくない過去だったのかもしれません。もしくは、当時私はまだ子どもでしたので、こういった昔話の聞き手としてふさわしくなかったのかもしれません。

お祖父さんのストーリーを教えていただけますか?なぜシベリアにいて、来日することになったのでしょうか?

祖父の家族がどうしてシベリアに行くことになったのかは、はっきりとはわかっていません。祖父の父は大学に行っており、1863年の1月蜂起や1905年~1907年にかけてのロシア革命に参加しその罰としてシベリアに送られた、という”英雄物語”が、家族間では語り継がれています。ですが、この物語の信憑性については不確かです。

家族間での言い伝えによると、曾祖父はポーランド孤児救済委員会に祖父らが引き渡された時にはすでに亡くなっており、曾祖母にはおそらく自分の子どもたちを守っていくのが不可能であったとされています。私は1918年に撮影された、女性と男性が1人ずつ写っている写真を保管しています。おそらくこれが、私の曾祖父母であると思います。写真の裏面には「親愛なるイヴァン・シドローヴィとクセニァ・シドローヴァへのギフトとして。カジミエシュ・マルシャウとニナ・マルシャウより」とロシア語でコメントが入っています。シドローヴィ家については、私はなにも知りません。このほかにも何かメモが書かれているのですが、残念ながら擦れてしまっており解読不能な状態です。この写真は、大叔母のアンナから父に渡され、それを私が引き継ぎました。おそらく、ポーランドに帰国する息子/娘たちにシベリアから託されたのでしょう。

お祖父さんがポーランドへ帰国された後、どのような生活を送られたのか教えていただけますか?

それについても、残念ながら私ははっきりと存じていません。
大叔母のアンナの話によると、彼女はヴェイヘロヴォの児童養護施設に滞在していたようです。ヘレナやベンジャミンも、おそらくアンナと一緒に同施設にいたのではないかと思います。彼らの署名が、polska1926.plというウェブサイトのポータルにあったからです。

一方で、この時、ヴィンセンティはどこにいたのか?どうしてヴィンセンティの署名はないのか?といったことは謎に包まれています。祖父だけでなくアンナの署名もなかったので、もしかしたらたまたまヴィンセンティの署名もなかっただけで、一緒に施設にいたのかもしれません。もしくは、ヴィンセンティはどこか別の場所におり、アンナは当時幼すぎて署名ができなかったのかもしれません。

家族の言い伝えによると、祖父は当時としてはよく学びパン職人になりました。戦後、自分のパン屋を開き、当時としては豊かな生活を送っていました。一方で、ポーランドに出生証明書といった適切な書類が存在していなかったため、結婚に関する問題を抱えていました。

お祖父さんの結婚式の様子

ロシアから書類が到着したのち結婚をすることができました。1935年~36年ごろに執り行われた結婚式の写真を私は所有しています。その写真には人形を手に持った当時5歳ほどのヴァンダも写っています。この人形は、書類と一緒にロシアから送られてきたものだと言い伝えられています。一体誰が人形をポーランドに送ったのでしょうか?役所の仕業でしょうか?もしくは、当時シベリアにいた誰かが、自分の無事を伝えようとして送ったのかもしれません。また、ロシア生まれであったため、戦時中に問題が発生したとも言い伝えられています。ソビエト軍が彼をソ連市民として徴兵しようとしたのです。ソ連軍に入隊することを避けたかったため、おそらく祖父は逃げ隠れしなければならなかったのでしょう。

日本の特別な思い出等、何かお祖父さんが長く覚えていらしたものはありますか?

先に申した通り祖父に会うことはできなかったので、そのような話は聞いていません。家族の歴史について少ししか知らないことを後悔しています。子ども時代には、このような歴史にあまり興味を持っておらず、正しく理解もできていませんでした。
それと同時に、祖父にとって当時のポーランドの政治統制下ですべてを語ることは危険であり難しかった、ということにも言及しておきたいです。
私自身、大人になってからこの歴史に強く興味を持つようになったのですが、その時にはすでに直接話を聞くことができる人は亡くなってしまっていたのです。

ご家族・ご親戚の中でシベリア孤児のストーリーや祖先の話はよく話題に上がるのでしょうか。

しばしば、話題に上がります。特に、祖先の真実にかかわる新しい情報が判明したときなどは話題となります。一方で、このように熱心に情報収集しているのは、息子のバルトシュにできるだけ多くを伝えたいという想いからかもしれません。彼のおかげで、皆さんの活動についても知るに至りました。つまり、もう次の世代がこの歴史を語り継ぐ段階にきているのです。

 

ご家族以外で、ウルシュラさんの周りにシベリア孤児の歴史に関してご存じの方はいらっしゃいますか?

残念ながら、祖先にシベリア孤児がいるという方は私の周りにはおりません。何年も前に私の祖先について誰かにお話したとき、歴史的事実に基づかない少女の作り話であると捉えられてしまいました。そうです、この歴史はあまりにもよく出来すぎていて、信じがたいものなのです。それでも私は、この歴史について自分がこのことを覚えている限りは語り続けて行きます。なぜなら、曾祖母が自分の子供たちをポーランドで生きていけるように救済委員会に引き渡したことに、とても感謝しているからです。私は曾祖母のことを、自分が独りぼっちになることや子どもの不確実な運命への不安を差し置いて、ポーランドで自分の子孫が生きていくための決断をしたヒロインであると、理解しています。

 

シベリア孤児の歴史はもっと広く知られるべきだと思いますか?

もちろんそう思いますが、本当に大変なプロジェクトになるでしょうね。ポーランドとその国民の歴史は、複雑で難しいですが、それゆえ興味深く美しくもあります。シベリア孤児に関する歴史は必ずポーランドと日本を繋いでくれることでしょう。日本人の貢献のおかげで、多くのシベリア孤児の子孫が今日ポーランド語で話し、母国で暮らすことができているのですから。その節は本当にありがとうございました。

 

この歴史を語り継ぐために、どのような活動が有効だと考えますか?

ポーランドのテレビで何年も前に、『ワルシャワの秋』という日本映画が放映されました。私の知り合いや家族から幅広い反響があったのを覚えています。ですので、この歴史のすべてが忘れ去られてしまっているわけではないのです。新しい映画などで取り上げるのにも十分に興味深い歴史的事実だと思います。シベリア孤児の歴史のみに限らず、様々な理由で何年もシベリアに抑留された人々についても、取り上げることができると思いますが、ポーランドの学校ではこのような話について歴史の授業で多く語られることはありません。この状況は変えなければいけないと思っています。

 

福田会が2022年に開催するイベントに関して意見やアイディア等をいただけますか?

そのようなイベントが行われ、この特別な歴史について改めて語る場が設けられるのは、非常に面白いことだと思っています。ポーランドの視点だけでなく、日本の視点も知ることができたら間違いなく興味深いでしょう。長年、シベリア孤児に関する調査を行ってきた研究者の方々と、なぜ自分たちの祖先がシベリアにいたのか、彼らの祖先は誰であったか、について話し合うことも面白いと思います。私たちが祖先のルーツを最も効果的に見つける方法を提案してくれるかもしれませんね。
他のシベリア孤児末裔と交流し、その家族の経験や家族の歴史について聞くことも重要です。このような「ある家族の歴史」がシベリア孤児の歴史全体のより深い理解に役立つかもしれません。

シベリア孤児に関する他のイベントが開かれた際に、参加したいと思いますか?シベリア孤児のご家族の集まりの開催等に関してどう思われますか?

たいへん喜んでシベリア孤児の子孫の皆さんとお会いしたいと思っています。新たな史実を発見するための格好の機会になるかもしれませんし、このようなイベントをきっかけに子孫のコミュニティーが形成され、それがポーランド人や日本人に歴史の啓蒙活動を行うようになるかもしれないとも思っています。

インタビュー日時:2021年6月吉日